2022年3月17日

アランが好きなわけ ②

 


ネットで見つけたアンティーク・アランセーターの写真(上)から編図を起こして実際に編んでみました。なんども試し編みをして模様を再現するわけですが、なかなか大変な作業でした。


練習のつもりで使った糸はごく一般的なウール、写真のセーターのように目のつまった風合いは出せませんでしたが、出来上がったときの嬉しさは半端ありませんでした。次回はアイルランド製のアランの糸で編もうと思っています。


ここで、アランセーターの歴史についてちょっとおさらい。スコットランドの漁師たちのガンジーセーターがアイルランドの漁港に伝わり生まれたのがアランセーターですが、もともと定番の色は紺色、それが白になったのは、アラン諸島の男の子たちの堅信式の「晴れ着」が関係しています。

アラン諸島には「男の子は悪魔に拐われる」という言い伝えがあり、小さいうちは女の子と同じようにワンピースのような赤い服が着せられていました。男の子の格好ができるのは12歳の堅信式の儀式から。お母さんたちによって白いセーターが晴れ着として編まれるようになりました。20世紀初めのことです。

1920年ごろには、アメリカ帰りの手編みの天才マーガレット・ディレインの指導のもとに、島の女性たちが競うようにさまざまな柄を編み出したとのことです。



これは商業化される前の装飾性の高い作品で1937年製。この写真からも模様を起こして編んでみました。









後身頃


後身頃の模様は写真が完全ではなくてイマジネーションを駆使させました。肩の部分は技術不足でどうしても写真の通りにいかず、悪戦苦闘の末に簡略化せざるを得ませんでした。糸はイタリア製ですがスペインから逆輸入しています。しっとりと滑らかで柔らか、重厚なアランセーターの風合いとはほど遠いものになってしまいましたが着心地は抜群です。次回はこちらもアイルランド製の糸で編んでみようと思っています。


そして、この二つの体験を経て、今度はオリジナルのデザインに挑戦してみました。といっても、気に入ったアラン模様を選んで構築したものですが。



使用したのは今度こそアイルランド製のアランの糸です。重みのあるかちっとしたセーターが出来上がりました。実はこの糸、以前に紡いだロムニースナイバーの糸と風合いが似ていて、アランのような自然の風合いを出すには紡いだ糸が良いのかも知れません。厖大な時間をかけて一生ものをひとつ制作するのも楽しそうです。






母、88歳のイタリア生活 ④ Mamma, 88 anni, si gode la vita all'italiana

 


2021年末、変異株オミクロンの猛威でイタリアはクリスマスもお正月も返上ムード、わたしたちのところまでコロナの影響は及んだ。わたしはクリスマスの前日までブースター接種の副反応で熱が出ていたし、クリスマス明けには陽性者との濃厚接触の疑い、余儀なく自主隔離生活を強いられた(オミクロン対応で規制は緩いものだったけれど)。

そんななか母の白内障の手術日が決まった。前々日には薬局で抗体検査の陰性証明を取り、前日の朝は8時に病院へ出向いて血液検査と心電図を撮る。なにゆえ3時間もかかるのか、コロナのせいでのろのろなのか、ようやく検査と支払いを終えて翌日の手術を待つのみとなった段で、眼科医から「心電図に異常が見つかったので手術は保留となった、病院に話を聞きに行くように」との電話。青ざめて夫と二人で病院に駆けつけると「発作のような心電図だからすぐにでも検査せよ」と。

「・・・・?」

わたしたちには思い当たる節はまったくない。母は穏やかでいたって元気なのだ。

翌々日、心臓内科を受診したときにはじめて書類に添付されたその心電図が別人のものと判明(わたしたちは動転していて気づかなかった)、ドクターによればその「別人」ほどではないが母にもやはり異常はあり、手術が保留となったのは正解。そんなわけで、毎月ドクターの本拠地のクリニックに通院することになった。

ボルゲーゼ庭園の北にあるそのクリニックまでは歴史地区の乗り入れ禁止ゾーンを迂回しながらも多少は観光気分に浸れる道筋、月に一度のローマ縦断は悪くはない、帰途コリアン食材ショップに寄って和食材を調達するのも楽しい。東京オリンピックで一躍有名になった冷凍餃子、餃子の皮、有機納豆、有機豆腐、ポン酢、味噌、出汁の素、カレールー、そば、うどん、などなど。韓国の食材は品揃えが良いけれど文字が読めなくて未知の世界、よってパス。そして、コロッセオからチルコ・マッシモへ出て、カラカラ浴場の脇を通って帰って来る。

今日がその診察日だった。お世辞にも愛想が良いとはいえない強いて言うならば威圧的な雰囲気のドクター(もちろん腕は確かなのだろうけれど)が母のことを「フォルテ」と言うので、そのときは医者によくある親日家なのかと思っていたのだが、今日など心電図を見ながら感極まって「ファンタスティカ!」、「ペルソナッジョ!」と声をあげられた。この年齢で薬で心臓がみごとに返り咲いたことが素晴らしいのか、母の振る舞い(深々とお辞儀をして挨拶をしたり靴を脱いで寝台に上がったり…)が珍しいのか、診察室の隅で理解不能に陥っていたのだが、どうやらこれは母のことを絶賛しているからに違いない。

そういえば今日はいきなりヒロシマ・ナガサキについて母に聞いてきた。あくまで関心の対象は母であって、わたしは通訳、黒子、わたしではなくて母の意見が聞きたいのだと念を押された。「原爆が落とされたのをどうやって知ったのか」、「そのとき地響きを感じたのか」、「天皇陛下はなんと仰られたのか」などなど・・・そして、戦争など無意味なことだと無念そうにポツリ。

帰り際、意を決してなぜ母がファンタスティカなペルソナッジョなのか聞いてみた。「あの時代を生きたひとりの日本人であることが凄いこと」なのだそうだ。なるほど、その日本人の心臓を診ることがこれまた心臓の権威にとっては意味のあることなのかも知れない。ドクターはひとびとの「心臓」を通してどのような世界観を持たれているのか逆に興味津々。

来週にも89歳を迎える母、夏にはまた温泉プールで泳ぐのだと意気込んでおります。