2026年3月28日

ザルツブルグ、音楽の旅



母のイタリア移住がきっかけで知り合ったローマの友だちとそのピアノの先生の3人でザルツブルグに行くことになった。

日々忙殺の先生が無理くりして空けた休みを有効利用するためにウィーン経由でザルツブルグへ電車で向かうことになった。ローマのティベルティーナ駅からザルツブルグ直行の夜行列車もあったが帰る日には寝台車がなく、ザルツブルグ空港やミュンヘンも近いのだが乗り継ぎを考えるとウィーン経由がいちばん節約できた。

予約などの準備はすべて友だちが手配してくれた。フライト手続きも電車のチケットもホテルも、すべてオンライン。一年も旅行しないとシステムはどんどん簡略化され、改良され、常にアップデートしていないと追いつけないほど。無人化が進んでいるので事前によくインフォメーションを読んでおかないと痛い目にあう。その点、そういった分野が得意な友だちの存在はありがたい。

ローマの陽気からして3月ならザルツブルグも温暖に違いないと思いきや、出発日は最高気温が6度、最低がマイナス2度という寒さ。ダウンジャケットと厚手のセーター、ブーツを準備した。

オーストリア航空の快適なフライトの後、ウィーン空港でインターシティに乗り継ぐ前に売店でお弁当(お寿司)を買う。3時間の電車の旅、スイスのような高原の景色を楽しみにしていたのだが期待は外れ延々と冬の原っぱが続いた。

午後遅い時間にザルツブルグの駅に降り立つとキーンとした冷たい空気に帽子やマフラー、手袋をつけてジャケットのボタンをかける。寒いというよりは凍てるという感じ。ホテルは中心から少し離れたところにあり、滞在中利用できる公共交通機関のパスが無料で支給されていたのはありがたい。ザルツブルグのバスはとても充実していて、この町にしては多すぎるのでは?と思うほどの便数。ホテルは無人、アプリを通じてすべて操作される。


旅の疲れもあって夕食はホテルの一階にあるアジアン・フードになった。なんと満席!夜は食べ放題のコースのみだったが、3人で40皿を平らげるという大挙。オーストリアも(おそらくドイツはもっと)和食やアジア系の料理が定着しているようだ。刺身やお寿司のネタも新鮮で種類も多かった。

イタリア式の朝食に慣れているわたしたちは(先生はイタリア人だけれど)朝はカフェとせいぜいクッキーくらいなのでホテルの提供するブレックファストは取らず。設置してあったエスプレッソ・マシーンとクッキーで済ませる。

朝食後はさっそくバスでザルツブルグの中心へ繰り出した。ホテルから歩いて数分のところにある停留所から市庁舎のあるミラベル広場まで出て、そこからは徒歩。ザルツァハ川を渡って旧市街へ。川の向こうの丘上に城塞がある風景はブダペストに似ているが、かなり小ぢんまりした佇まい。



旧市街をぶらぶら散策していると手作り感満載の素敵なお店に遭遇・・可愛いもの大好き女子の購買欲が爆裂。かなり大きめの藁製イースターラビットがあまりに可愛くて、いかにして持ち帰るか悩みながらも買ってしまった友だち・・・。ちまたはイースターラビットで溢れかえっていた。(ちなみにイタリアならイースターエッグ、フランスならニワトリか・・)









街を散策しているとモーツアルトの生家に辿り着く。そもそもモーツアルトの生誕270年にその生地を詣でるというのがこの旅のテーマであった。神童と呼ばれクラシック音楽にいまも大きな影響を与え続けるモーツアルト、音楽の町ザルツブルグの聖地、パワースポットについに足を踏み入れる。

数々の遺品、楽器、絵画が展示されるなか、印象的だったのはきっちりととても美しく綴られていたモーツアルト直筆の手紙。映画などで知る彼の破天荒ではちゃめちゃな印象とは打って変わって、彼の内面は数学的な精巧さと緻密さを備えた神的な美しさに満ちている。現実世界との折り合いがうまくいかない彼の真の姿を手紙の文字にも見たような気がした。彼の音楽を聞けばおのずと伝わるのだが。


パワースポットでエネルギーを充填した後、ザルツブルグ大聖堂へと向かう。ここは、モーツアルトが洗礼を受けた教会で、彼のお父さんや彼自身もオルガン演奏をしていた。

この教会では毎日正午にオルガンの演奏を聞くことができる。この旅のもうひとつの目的がまさにこれで、世界最大級のオルガン演奏を体感することだった。






ピアノの先生はバロック音楽、特にバッハをこよなく愛し、クラヴィチェンバロも演奏される。オルガン演奏を聴いた後の感動がなかなか冷めやらず、司会の女性に曲目を尋ねるなどして喜びはクライマックスに達する。教会建築の一部とされるパイプオルガンの空間を占拠する音の存在感、思わず、神は存在する、と絶対的な刻印を押されたような瞬間、そこから感動は涙へと変わる。わたしたちは翌日も聞きに来ることにした。




ランチは大聖堂の近くの老舗ビアホールでご当地料理のソーセージと卵、ポテトの定食と卵白のスフレのオーブン焼きに酸っぱいラズベリーソースを添えたナッケルなるものを試食。量が多くて食べきれなかったけれど、ジモティ感をおおいに味わった。

幸いお天気は快方に向かい少し暖かくなったので、川沿いを歩いてミラベル広場に戻り、ミラベル庭園を見学。オーストリアのひとは公園などで静かに日光浴するのが大好き。そういえば、この国に入ってから、騒音だったり大声だったり、一度も耳にしたことがない。お店の中でも音楽はかかっていないし、とにかく静か・・。音楽への敬意、というか、むやみやたらに空気を乱してはいけない、的な認識が広く行き渡っているのかも知れない。音も環境の一部なのだ。そして、街はもちろんクリーン、ゴミひとつない。環境といえば、視界に入ってくる文字も雑念という観点ではゴミのようなもので、必要最低限の情報しかちまたにはない。暗号化されているような、そんな簡潔さなのだ。そして、さらに気づいたことといえば、小さな子どもが多かった。教育環境のよさなのだろうか。









その日の夜、わたしたちはホテルの近くのビアホールへと繰り出した。美味しいビールとグーラッシュやソーセージに舌鼓を打つ。









翌日はホーエンザルツブルグ城を目指した。丘の上にあるお城へわたしはロープウェーで、友だちと先生は徒歩で登ることに。ここは歴史が古く、ローマ時代の要塞がカトリックの教会となり、以後、先の戦争で城塞となるまで継承された建物。







大聖堂の正午のオルガン演奏までのあいだ、老舗のお菓子屋フュルストでひと休み。肌寒くても少しでも陽が当たればテラスに出て食事をするオーストリアのひとたち。

その日のオルガン演奏は前日の演奏家ではなく女性だった。教会内の5つのパイプオルガンのうち3つを弾き比べ、45分の演奏はあっというまに終わってしまった。次の旅は、もう決まったようなものだ。オルガンのメッカ、オランダ・・。








モーツアルトの音楽院に立ち寄ると夕方から学生による無料コンサートがあるとのこと。それまでの時間すっぽり空いていたので、バスで郊外のお城に行ってみることに。少し街を離れると瀟洒な別荘風の庭つきの戸建てが多く、優雅な佇まい。後方には雪に覆われた山々が連なり避暑地には最適だ。ウィーンのお姫さまが建てたというお城は観光の時期ではなく閉館だったが庭は開放されていて、ひとびとの憩いの場所となっていた。

モーツアルト音楽院のコンサートは数人の学生さんによるクラリネットのコンチェルト。未来の一流音楽家の卵たちだ。













その夜は前夜と同じビアホールで同じメニュー、というのが笑えるのだけれど、雰囲気といい、ビールといい、間違いなく美味しかった。9時には退散するお客が多いオーストリア、イタリアとはだいぶ違う・・。

翌朝はすでに帰途、早朝ザルツブルグインターシティでウィーンへ向かい飛行機に乗り換える。のだが、ウィーン中央駅でいったん降りて空港行きの電車に乗り換えなければならず、その数分の乗り継ぎに失敗してしまった。どのホームなのかさっぱりわからず、もちろんインフォメーションもなく、駅員もいない。

かろうじて次の電車で空港に到着できて空港のセキュリティチェックまでは駆け足(後にも先にもあんなに走った記憶がない)なんとか搭乗時間に間に合ったという次第。

今回は日ごろのルーティーンから解放されるための、そして、その目的が音楽という、なんとも魅力的な旅だった。ピアノの先生と音楽の話ができたのも嬉しいし、また、オランダへとつながることを期待しつつ・・。











2026年2月1日

母、92歳の秋は至難のときでした

 



今年の10月は朝から晩までショパン三昧だった。これまではファイナルから聴き始めていたけれど、今回は初日からすべて、ローマの音楽通の友人とチャットでつながりながら、文字通りすべての参加者の演奏をくまなく聴いた。

その毎日につきあっていたのが母で、さほど興味はなさそうではあったけれど、他にすることもなし、じっと我慢の子みたいな感じ。果て、いったい母はクラシック音楽は好きなのだろうか?わたしの下手なピアノを聴かされるのも、もしかしたらうんざりしているのかも・・・。

ともあれ、本心は語らない人なので、あえて追求はしない。

ある日、その母の腕に青あざがあるのを発見、どこかでひとりで転倒したのか、うっすら血も滲んでいた。聞いても覚えていないという返事。その後、腰が痛いと言い始め、鎮痛薬でようすみをしていたら、ちょこちょこと転倒を繰り返し、思うように歩けなくなったことに精神的なダメージを受け、これまで見たことのない形相で泣き叫んだりしてパニックに陥る。医者に安定剤をもらって一時落ち着いたものの、これ以上山の家にいるのも良くないと思いローマに帰ることに。

母は依然腰の痛みは取れず、歩行器と車椅子を使って数日はやり過ごしていたが、ある晩、ベッドに横たわったまま1ミリも動けない状態に陥ってしまった。あたふたしてしまったのは家族の方で、とりあえずはレントゲンのデリバリー検査を依頼、救急搬送すべきか迷ったあげく、ホームドクターの見解で整形外科医の往診を依頼。1ミリも動かせない状態でいちばん困ったのは、食べること、飲むこと、排せつ。搬送に使う大型のシートを購入して、背中を曲げないようにずらしたり、起き上がらせたり、介助士の大変さを痛感した。


整形外科によれば間違いなく骨折、よって麻酔系の貼り薬が2か月分処方され、その効き目が少しずつ現れてきた。抱きかかえて起こして車椅子で手洗いに連れて行って用を足し、食事は寝床で食べさせるという日々が続く。そのあいだ、だれかが付き添っていなくてはならず、家族で交代制で対応した。

このとき、母の口から驚くべき真実が吐露され、6年間もよく黙っていたものだとその強固さにびっくりした。わたしたちのことや、過去のすべて、忘れた振りをしていただけで、なにもかもお芝居だったのだ。パニックに陥り泣き叫んだ母、イタリアに来て6年間ずっと我慢していたがとうとう鏨が外れた。

痛みのせいもあるけれど、体力が低下して、もう駄目なんじゃないかと思うほど弱り切っていた母、腎不全による赤血球低下の問題も抱えていて、そのためには保健所の腎臓内科の特別な薬の処方箋が必要だった(民間の医者では処方できず、薬局でも入手できない)保健所の予約センターに電話をかけてみるもののローマでは4月まで空きがないとのこと。諦めずに電話をかけ続けたら、その週のうちに空きができ、即、車椅子に乗せて診察に向かう。こんなときも往診サービスはなく、動けない患者はあきらめるしかないのかと不条理を感じるばかり。幸い、その日のうちに処方してもらい、すぐに薬を入手、注射など初めてだったけれど、わたしが打つことに・・。その薬のおかげが大きいのだと思う。赤血球が上昇して、みるみるうちに食欲も出て、元気になってきた。

もうひとつの問題は床ずれによる褥瘡が足の踵にできてしまったこと。床ずれ防止にエア・マットレスを購入したものの、母の体重では軽すぎてガサガサして落ち着いて眠れない。メモリー・フォームのマットレスを敷いて反発をなくしたのが良かった。けれども、踵の褥瘡は進行していて、専門医に連れていき手入れをしてもらい、毎晩クリームを塗ってケアすることになった。

看病疲れのわたしにとって唯一の気分転換だったのは、ローマに戻って通い始めたヨガ教室。精神的にもかなり助けになったと思う。近所のシニア・カルチャー・センターで30年くらいヨガ教室に通っているという先輩たちの親切なこと。温かく迎え入れてもらって本当に嬉しかった(現在進行中)

そんなわけで、この冬は母の看病づくしの日々だったけれど、すっと立ち上がって歩けるようになってから少しずつもと通りの生活に戻っていった。

今回の母の寝たきり生活から学んだことは今後にもおおいに役立つはずだ。周囲にはそんな経験を持つひとたちばかり、だれもが通る道なのだと思う。



2025年9月9日

プロチダ島へ日帰りでプチ・クルーズ

 



カンパーニャ州最北端の山の家から日帰りで行ける島といえば、ポンツァ、ヴェントテネ、イスキア、カプリ、プロチダなどがあげられる。カプリ、イスキアは観光客で混雑が容易に想像され、逆にヴェントテネは遥々行くには見るものがなさすぎっぽい、というわけでポンツァかプロチダのどちらかを選ぶことになった。

家から車で45分ほどのフォルミア港からフェリーで2時間かかるポンツァか、1時間ちょっとのポッツオーリ港から30分のプロチダか。迷いもせずプロチダに軍配があがった。というのも、プロチダに行く方が時間的にも効率は良いのだが、もともとポッツオーリのあるカンピ・フレグレイ地域はローマ時代の富裕層のリゾート地で歴史的な魅力が満載、フェリーからその地を愛でながらプロチダ島に渡れるなんてまるで夢みたい!なのだ。

車でポッツオーリまで1時間ちょっと。ここはソルファターラの硫黄火山でも知られていてローマ時代のテルメや円形闘技場の遺跡もある。

小型フェリー(イッポカンポ)はバイア(古代ローマ海底都市がある)、ミセーノ軍港、裏側にはクーマがあることも想像しながら、プロチダ島へと進む。



プロチダ島はイスキアの手前にある小さな島で1日もあれば観光できる。

映画『ポスティーノ』を撮影した海岸や、カラフルなお伽の国のようなコリチェッラ港、山頂の中世要塞都市などが観光スポット。徒歩で山頂の展望台まで登ってコリチェッラ港を見下ろし、そこから島の反対側の海岸まではミニバスを利用する。島の一方通行にもなっていない狭い小路を対向車と阿吽の呼吸でうまくすれ違いながらミニバスは走る。カプリやイスキアほどまだ観光化されておらず地元のひとびとの生活風景がそこここに目立つ。




あっというまにフェリーの港マリーナ・グランデに戻ってきた。漁船から荷下ろしした魚を魚屋に運ぶ漁師たちを眺めながら、そのあいだに立ち並ぶレストランで魚介づくしのランチにありつく。バイアで養殖されているムール貝の美味しいこと!生臭さもなく小ぶりでプルプルの舌触り!新鮮な魚が安く手に入るジモティが羨ましい。

















食後はまったりと港で過ごし、午後いちばんのフェリー(といっても5時近く)でポッツオーリに戻った。

港のすぐ近くにあるマケルム・セラピス神殿を目の前にずらりとテラス席を並べるレストラン、弱めのライトアップで神秘的な雰囲気を漂わせながらのアペリティフ、次回はここもぜひとも!





ソンマ・ヴェスヴィアーナのヴィラ・アウグステア遺跡(東京大学発掘現場)

 


この夏の最大のイベント!東京大学の20年に渡る発掘現場であるヴェスヴィオ山麓の町ソンマ・ヴェスヴィアーナにあるヴィラ・アウグステア遺跡見学会に参加させていただいた。

発掘責任者の東京大学の教授2名、在伊日本大使館から3名、そして数名の遺跡愛好家を募っての見学会、イタリアではフェラゴストという聖母マリア昇天祭の週で夏真っ盛りだった。

折しもその数日前にヴェスヴィオで火災が発生し、見学がキャンセルにならないか心配だったが、ソンマは山火事の被災地から離れていたので決行となった。

ヴェスヴィオ山麓からひょんなことから発見されたこの遺跡、発掘当初は神殿のようなものと思われていたのが、その後作業が進むにつれ紀元後2世紀半ばの農業関連施設であることがわかってきたのだとか。さらに東京大学が発掘を継続したところ、その下に紀元1世紀前半の建物の一部が見つかり、かのローマ初代皇帝アウグストゥスが亡くなった別荘ではないかとのニュースが世界中を駆け巡ったのは記憶に新しい。

古代の歴史家たちによればヴェスヴィオ山麓ノーラ周辺にあったと記されているのだが、これがその別荘だと確証できる発掘物(文字や印など)はまだ出てきていない。しかしながら規模的にも高貴な身分の人物の別荘であったと考えられ、さらなる調査が期待される。

















見学グループでの親睦会ランチは現場近くのレストランで。周りはぶどう畑や果樹園ばかり。そんなところにオアシスのようにあったこのレストラン、スペシャリティのバカラ料理と地元のペコリーノ・チーズ、パルミジャーノ(人生で最高だった!)、デザートも申し分ないレベルの高さ。

















2025年9月8日

鋳物造りの町アニョーネ(モリ―セ州)

 

モリーゼ州にある標高850mの町アニョーネは2千5百年前から鋳物造りが連綿と続いており、なかでも8世紀に渡って途絶えることがなかったマリネッリ家は世界で最も古い家内工業、ヴァチカンに鐘を奉納していることで知られている。

今年は25年に一度の聖年(ジュビレオ)であり、その記念の鐘や大阪万博記念の鐘も製造された。

正午を知らせる鐘の音の響きはモリーゼの山脈を越えて近隣の町にも届いているようだ。











クルミやアーモンド、チョコレートを挟んだオスティア、古代から伝わるパネットーネ、鐘の形のお菓子など伝統菓子もたくさんあり、小さな町とはいえ歴史文化の豊かさを感じさせる。




お昼はマリネッリのご主人お勧めの郊外のアグリツーリズモへ。そこはすでにアブルッツオ州、数種類の温冷前菜とニョッキ、子羊のグリル、ポテト、半分以上食べきれずにお持ち帰りに包んでもらった。地産の貴重な食材を無駄にするなどもっての外、というわけで。







山の家から片道100kmあったけれどパノラミックで大自然を満喫しながらのドライブは快適。