昨年の秋に転倒を繰り返して骨折、寝たきりの生活を2か月ほど送った母。なんとか元気に歩けるようになるまでなり、体調は順調に回復していたかのように思われた。腎不全による貧血も特別な治療によって12月末には数値は標準に戻り、 3月に血液検査をしたときの結果も良好とのこと。
「もう歩けない、もう駄目だ・・」と言ってはソファに身を投げて嘆く母、体調は良いはずなのに、体力が落ちてきていることへの不安からだろうか、あるいは認知症によるパニック発作なのだろうか。夜中に起き出し暗闇で転倒して顔や手に怪我をしたり、ひとりで寝るのは嫌だとダダをこねたり・・夜もよく眠れないようだったので、老人専門医の診断を受け、心臓内科の検査の結果鎮が良ければ鎮静剤を処方してもらえることになった。そして、その薬の効き目のせいか母はすっかり別人のようにおとなしくなり、夜もよく眠るようになった。
それから10日ほどたった5月7日の朝、腎臓内科の診察のための血液検査があった。看護師さんが「いつもとようすが違う、元気がないわね」とひとこと。多くのひとを看てきたエキスパートの勘が働いたのだろうか、案の定、すぐに保健所から電話があり、ヘモグロビンが基準値を大きく下回っているのですぐにホームドクターに連絡するように言われた。3月の検査の半分の数値まで落ち込んでいたのだ。
母はいたって穏やかで顔色も普通だったが、酸欠状態になると危険なのですぐに救急へ連れて行くようにとホームドクターから指示され、サンテゥジェニオ病院の救急へ運んだ。いろいろな検査ののち輸血をすることになった。
翌5月8日の朝、病院から別の病院へ搬送されるむね連絡を受ける。家から比較的近いところにあるイスラエリティコ病院だった。老人医療の専門病院でもあった。
面会時間は12時と18時からで、それぞれ1時間のみとのこと。衣類のみ携えて正午に病院を訪れると母は2人部屋で元気そうにしていた。カテーテルをつけられベッドからは下りられない。身動きができない状態になったことに苛立ってか、ときどきベッドの上でジタバタすることがあるのだと気管支炎で入院していた同室の女性が教えてくれた。
火曜日と金曜日の面会時間はドクターの往診があった。母の貧血は内出血が疑われるため輸血の経過観察とともに内視鏡検査をする段取りとなった。母の場合、言葉の壁によるコミュニケーションの難しさがあったため、検査にはわたしが立ち会うことになった。
5月14日、朝8時に病院に出向き母の病室で待機していると、母だけがストレッチャーで運ばれていった。看護師とドクターのあいだの意志の疎通がなされていなかったのか、付き添うはずだったわたしは病室に残ったまま。そんななか母が検査前にパニックを起こしたようで心臓に異常が発生した。検査は中断され母は病室に戻された。心不全による肺水腫と腎臓の感染だった。しばらくようすを見ることになった。
次の週も母はいたって元気そうで食事もよく摂り、ゆったりと入院生活を送っていた。このまま快方に向かえば退院できるかも知れない。在宅医療サービスが受けられるような形での退院であればわたしたちも受け入れようと思っていた。
5月23日、面会に行くと母がベッドでぐったりしていた。発熱と感染、抗生物質を投与し始める。抗生物質を使うと栄養が十分摂れず抵抗力も下がってしまうのは明らかだったけれど、ドクターたちはそれにかけた。
ちょうどその2日ほど前の夜、看護師たちが母の腹部マッサージをして排泄を促したとのこと。それが原因で感染がひろがったのではないかという疑念が生まれた。けれどもそれもいたし方がなかったのだろう。
最初の抗生物質は効かず、最後の砦とされる抗生物質バイコマイシンが投与されることになった。薬を投与中の母はぐったり朦朧として目も開けられない状態だったが、食事を口もとに運ぶとよく食べてくれた。食べれば腸に刺激が与えられて下血を助長してしまうのでは?けれども、ドクターから特に指示はなかった。快方に向かっているのかそれとも・・神のみぞ知る、運を天に任せるしかなかった。
快方に向かえば退院できるのだ。
このように脆弱になった母を家に引き取ってどう対処するのか、わたしたち家族の不安は募るばかり。特養ホーム入居手続きも同時に進めなければならない。居住区の保健所の管轄内にある特養のウェイティングリストに入れてもらうのだ。その待ち時間のあいだ、保健所から在宅医療を手配してもらえるとのこと。それでまかなえるかどうか、いささか心配だったが、なんとかするしかなかった。
イタリアも高齢者社会なので数多くのホームが存在している。ローマに民間と公共の施設がそれはそれはたくさんあるのだが、一度、民間の設備が整っているホームに電話で問い合わせたところ、月額一人部屋なら3500€、二人なら3000€といわれ、驚きを隠せなかった。24時間体制の看護・医療ケアつきの民間のホームならばこれくらいが相場なのだという。特養に入るためには保健所の審査が必要で、待ち時間は早くて半年から長くて1年とのこと。それでも母が回復して入居可能になれば助かる。
6月2日の夜中に2度、翌朝1度、大量下血があった。2日はイタリアの共和国記念日のため、ドクターたちは不在だった。3日の昼過ぎになって担当医から電話があった。輸血はしていないが重篤とのこと。さらにその夜も繰り返し下血、真夜中に病院から電話がかかり2度目の輸血の承諾サインをするために赴いた。「苦しませないための処置だ」と言われた。
これ以上の下血を阻止するために絶食となっていた。輸血後の母は元気を取り戻し、よく笑いよくお喋りをし、まるで回復したかのようだったが、それも2日しか続かなかった。手足の指先は紫色に変化、チアノーゼだ。爪は真っ白だった。左腕はパンパンに腫れていた。
3日目には呼吸が荒くなり、身体じゅうの点滴針の穴から液体が滲み出していた。両腕とも膨らんでいた。
痛いところはある?と聞くと、ない、と母。まる1日は耐えられたが翌日はもう限界のように思われた。生まれ故郷の美濃の小倉山の名を、声にならない声を精いっぱい絞り出して伝えようとしていた。生きているあいだについぞ帰ることができなかった故郷へ、連れて行く約束をした。
その日の夕方、いつものように面会に行くと「お父さんが来た」と言った。2005年に亡くなった父のことだ。母が旅立ったのはその翌朝の2時34分だった。
病院からの知らせで午前3時過ぎ病院に出向く。霊安室の責任者がわたしたちを迎えてくれた。母の顔をひとめ見て、葬儀のための手続きを終え、帰路につく。
母の旅衣にはわたしの長襦袢を着せ足袋を履かせてもらうことにした。愛用のバッグにちり紙とお気に入りの柔らかいガーゼのハンカチ、そして折り鶴を2羽。親戚・兄姉妹の写真も一緒に。
5月9日、お見送りの朝、病院の霊安室で棺桶に納められた母に最期のお別れをした。穏やかでいつも通りの綺麗なお顔だった。まるで眠っているかのような・・。SAYONARAと書かれたリボンをかけた花輪は、母の名前の由来の八重桜のピンク、薔薇の花ではあったけれど。母を乗せたメルセデスが見えなくなるまでその後ろ姿を見送った。
火葬の日はまだわからない。ただ、遺灰となって母が家に帰って来るまで待つのみとなった。
母は、遠いところへ嫁に出した娘が気がかりでイタリア移住を決めたのかも知れない。なにがしたいとも、なにが欲しいとも、ひとことも、本当に一切言わなかった母、わたしたちの言うことをいつも「はいはい」と聞いて、一緒に楽しそうにしていた母、イタリア語はわからなくともイタリア人には愛された母。
日本からイタリアに渡り、その93年の長い旅路を終え、さらに遠い星々の世界へと旅立った母、いつまでもわたしたちを空から見守っていて下さい。
この1か月のあいだ、懇親懇意、最善を尽くして下さったローマのイスラエティコ病院の先生方、看護師・スタッフの方々、本当にありがとうございました。深く感謝申し上げます。






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