夏の山暮らしもすでに2ヶ月が経過、環境が変わるたびに戸惑う母だが、週3回の温泉プール通いのルーティーンにもようやく慣れた。今年は6月初旬からすでに熱波に見舞われ始め、ローマを早々に離れたのだけれど、標高700mのここでも昼間はうだるような暑さ、ここで朝から扇風機をつけたのは今年が初めてだ。
心臓疾患のため温泉プールをとめられていたが、そんなの関係ない!と泳ぎまくる母。利用客のなかではおそらく最高年齢、プールサイドのバールでも顔パス、朝食のカップチーノとコルネットがおのずと出て来る。
栗林の山では豊作が期待できそう。どこもかしこも栗、栗、栗。ただ、今年はイノシシの被害が増加していて、夜になると大群で出没するため村中の犬が大合唱となる。穏やかな山の暮らしはどこへ行ったのか。窓を開ければ山焼きの煙(これは栗拾いの支度なので致し方ないとしても)、早朝の山仕事のトラクターの爆音、フェラゴスト(8月15日の聖母マリア昇天の祝日)周辺の連日連夜のお祭り騒ぎ・・・。騒々しい8月が過ぎると栗拾いが始まり、当分のあいだザワザワするのだろう。そして、10月からは栗フェスが開催される。コロナで2年停滞していたので今年は大々的に行われるに違いない。
ここの暮らしの難点といえば、村人のバリアの高さ、夏のあいだだけしか来ない(といっても4ケ月もいるのに!)部外者とは深くおつきあいしないという部分は徹底している。ところが彼らは好奇心の塊、少しだけ知りたい、少しだけ触れ合いたいというオーラで包まれている。小さな情報がひとり歩きして、尾ひれがついて、まったく別の物語が出来上がってしまっていたりする。もうひとつ気がついたことは、究極の村人に限らず一般的にここらのひとは開口一番「(息子に)彼女はいるの?」と、親でも気を遣うデリケートな領域にズカズカ踏み込んでくるということ。そこで、なぜなのかちょっと考えてみた。彼らにとって結婚はひとではなく家どうしのつながり、親類縁者の系図のなかで生きているといっても過言ではないので気になって仕方がないのだ。国際結婚がないわけではないし、移民としてアメリカに渡ったひとも多いのでオープンマインドなはずなのに・・・。夫はただただ破天荒なアヴァンギャルド、幻の日本人女性との結婚でなにかが変わったのだろうか・・ここはわたし(母も)にとっては異次元の迷宮、それはそれでまたワンダーランドっぽくて面白いんだけど。
ワンダーランドといえば、去年の夏、次男と海から山へ車で帰る途中、道を間違えて知らない村に入り込んでしまった。広場にたむろするひとたちは、中・高齢者なのだろうけれど子どものように目が輝いて、いきいきしていて、服装も子どものようにカラフルで・・「あ、ここは時間が止まっている」と思わずにはいられない。閉ざされた世界というのはこういうことなのね。そこを通り抜けて少し行けば大きな病院、いたって普通の世界があるのに(笑)
母はというと、最近はYouTubeで生まれ故郷の動画を観るのがもっぱらのブーム、テレビに父方の在所が映し出されるのが嬉しくて仕方がないみたい。ユネスコの無形文化遺産や指定文化遺産の観光名所で少なからず動画が存在している。毎日同じ動画でもあたかも初めてのように喜んで観ている母、一服の精神安定剤の役割を果たしてくれて本当にありがたい。わたしも母の歳になったら幼少時代によく遊んだ公園の動画で癒されるのだろうか・・・。
ここのところ眼が疲れるのか編物をしなくなった母に機織りを教えてみた。準備した縦糸に横糸のシャトルを左右に動かして通すだけ。でも、新しいことに挑戦するのはなかなかしんどそうで、長続きしなかった。やっとのことでマフラー1枚だけ織りあがった。
変わったことといえば、昨年モザイク・アーチストさんに依頼していた装飾が完成した。デザインは庭に植えてあるクサギと小鳥の水飲み場をそのまま絵にしたもので大理石だけで作っていただいた。飾る壁はここの休火山の岩石を用いているのだけれど、まるで壁から自然に生まれ出たような作品。さすが、アーチスト、奥深いものがあって感動・・記念碑にしようと思っています。