今年は5月末、ローマの気温は上昇するばかり。然るに山の家への移動も早まる。
カンカン照りのなかアマルフィの結婚式やペストゥム遺跡巡り(←母同伴)をこなし、7月にはペルージャでウンブリア・ジャズ。最後に行ったのは15年前、2009年のステファノ・ボッラーニとチック・コリアをブエノス・アイレスからはるばる聴きに来た。音楽はやはりわたしのなかにしっかりと根を下ろしている。
音楽を取り戻せというお告げはたびたび降りてきていたけれど・・・例えば、ローマを歩いていて偶然見つけたピアノの定期演奏会だったり・・畏まって聴きに行くシロモノではなく聴きたいときにそこにある的な音楽。
そして、この夏そのお告げがとうとう決定打となった(らしかった)。
2019年に東京からローマに引き揚げて来たとき(母も一緒だった)、コンパクト・グランド・ピアノがどうしても手狭になって置いておけなくなり、あちこち引き取り手を探した末にこの山の集会所(聖ミカエル会)が手を挙げてくれた。コロナ禍が始まる寸前のことだった。しかしながらこの5年間でピアノが使われたのはほんの2回で調律もしていないとのこと。哀れにも集会所の家具と化し、どこかに譲ってしまおうという声すら出ていたとかいないとか。
「それなら、わたしが引き取ります」と集会所の責任者を務める従兄に提案してみた。
「そもそもピアノはわたしの分身のようなもの、泣く泣く手放したものの本当は悲痛な思いでいっぱいだった。もし手元に戻って来てくれるならこんなに嬉しいことはない、心の友なのだから・・・」と、つらつら。従兄も渡りに舟的な申し出にすぐにノッてくれた。ここに置いておくにはもったいないとまで言ってくれた従兄よ、ありがとう。
村の男衆に頼んで数十メートルのところにあるうちの庭先のパティオ・スペースに運んでもらうことになった。
足を取り外して本体を毛布でくるみ、荷台にタテてゴロゴロと引っ張る。250㎏の巨体もすんなりと動いてくれた。
ブエノス・アイレスで出会ったウィーン製のこのピアノ、マホガニーと象牙の鍵盤に一目惚れして購入したのだが、ウィーンからどういう経路でブエノスにたどり着いたのか、だれが弾いていたのか、いまとなっては知る由もなし・・ウィーン→ブエノス→ローマ→そして山の家、おそらくここが終着点。
調律師のお兄さん「うぅぅ、古いっすね・・・」
でも、音は良いのである。鍵盤6本がバカになっていたので取り換えてもらい、調律してもらっていくうちに、「こりゃいける、いけるぞ」となり・・。
ありがとうございます~愛着湧きます~💛
今回だけはブランクが長いので3か月後にもう一度見てもらい、その後は年に一度で大丈夫ということになった。せめてわたしが生きているあいだは持ち堪えてもらいたいものである。
古い楽譜を開いていざいざ・・ここで、大きな壁にぶち当たる。指が動かないのだ。
長らく患わっている指の変形性関節症のせいではなかろう。ピアノを弾くという動き自体が記憶からすっ飛んでいて、どうしていいのかわからない状態なのだ。こりゃ参ったぜ~😮
分身のはずなのに、ブエノス時代の後半になると絵にはまり「音と色は同じ」などとほざいて色の世界に没頭、ピアノを封印してしまった。目覚めよ分身~✊
ゆっくりじっくり音符を拾いながら指を動かし、これをコンスタントに繰り返す。古い記憶に刻まれた体感が蘇り動き出す。へえ、不思議・・。
ブエノスで通っていたアイアンガーヨガの先生、ピアノも弾かれるのだけれど、口癖のように「ピアノはボケ防止になるわよ」と宣う。御年には見えない若さと美貌をお持ちでヨガのインストラクターともなればスタイルも抜群。なるほど現実的で説得力がある。
長くて退屈な山暮らし。山登り、読書、機織り、編物、たまーに遺跡巡り、いろいろとすることはあるけれど、脳がモッツアレラのようにツルツルになっているのではと思うことが、潮の干満のように定期的に訪れる。これはもう絶対に、必ず、訪れる。
そこから救わんがために現れた決定的な、地球のどこにいてもそれさえあれば大丈夫的な、聖なる、なにか?
ブダペストのリスト・アカデミーで聴いたクリスチャン・テツラフの星空から零れ落ちるような、完全に昇華しなければ降りてこないバイオリンの音・・そしてその翌日、偶然にも街中でテツラフ氏に再会できた奇跡。そういえば、ずいぶん前の話、ペーサロのコンセルヴァトワールで聴いたピアニストもクリスチャンという名だった(かの偉大なるジーメルマンのことだけど)、彼のブラームスのソナタを聴いた後あたりから不思議なことが次々と起こるようになり、こうしてときどき大切なことを思い出させてくれるキーワードはもしかしたらクリスチャンだったのかも。
わたしの洗礼名でもあるクリスティーナ(クリスチャン)をこのピアノに捧げようと思う(なんかめっちゃ大袈裟やん~😂)