2024年9月8日

ピエトラヴァイラーノ、天空の遺跡



ピエトラヴァイラーノの天空の遺跡がモンテ・サン・二コラの頂き(410m)にその神々しい姿を現したのはついこのあいだ、西暦2000年2月のことだった。地元のデルタグライダー愛好家が飛行中に撮影した写真を専門家が分析した結果、そこに紀元前の古代遺跡が眠っていることがわかった。以後、発掘と修復が進み、徒歩で登って遺跡見学が可能となる。


周りの友だちからも行ってきたという声を聞くようになり、今年こそはわたしも!と毎年思いつつも機会を逸していた。だが、とうとうその念願がかなったのだ。

とはいえ残暑(まだ夏日真っ盛り)は厳しく午前中からすでに30度を越えていた。ピエトラヴァイラーノは山壁にへばりつくように発達した中世の町で、わたしたちが夏の休暇を過ごしているこの山からは車で30分ほどの距離にある。古くはTerra di Lavoroという行政区分(豊饒の地とでも訳しましょうか)だったこの地域はカンパーニャ州の北部マテーセにある。




町でたまたま遺跡への行き方を尋ねたのが市議会議員さん、親切にも車で登山口まで誘導してくれた。もし彼がいなかったらそこに辿り着くまでに右往左往したに違いない。非常にわかりにくいところにあるからだ。「手摺はあるけれど勾配はきついし砂利道なのでくれぐれも滑落に気をつけるように」と念を押された。

途中、立派な木造の山小屋があり、そこからはモノレールの線路が山頂に向けて建設されていて(リグーリア州チンクエテッレの断崖絶壁の葡萄収穫用に開発されたモノレールで急斜面でも使用できる)完成すれば15分で登頂できるようになるらしい。徒歩では30分はゆうにかかる。



登山道は整備されているものの、議員さんが言うとおり砂利で覆われ、日陰は一切なしの急勾配、ゆっくり歩み出す。途中、何度か休憩しながら頂上に辿り着くと、想像していたより小ぢんまりとコンパクトな半円劇場が現れる。修復によって段座はコンクリートで固められてしまっているがそれ以外はまずまずの完成度だと思う。












そこからの360度の眺望は言葉では言い表しがたく、こんな頂にギリシャ劇場と神殿を築いた古代サムニウム人の気概には恐れ入る。サムニウム人とはローマ時代以前からイタリアに住んでいた人々で山々を遊牧する文化を持つ。この遺跡は紀元前4~5世紀とも2~3世紀ともいわれるが、彼らがローマに征服される前から存在していたことは間違いない。


この炎天下のなか、わたしたち以外にも登頂する姿があった。近くの教会から高齢の神父さまとシスターとその甥っ子さん、さすが、修行を積んでおられるだけあって黒い僧服のままこの暑さのなか登って来られたが少しも疲れたようすはなく笑顔。続いて英国人観光客を数人引き連れてイタリア人のご夫婦が。話しかけると考古学愛好家とのこと。イセルニア近くのプロ・ロコ(地域振興会)の会長さんだそうで、遺跡について話し始めたらもう止まらない(笑)サムニウム人の文化から地域の遺跡のこと、ついには、共通の友人がいることもわかり、古代遺跡が取り持つご縁である。


この遺跡は集会所的な性格が強く彼らにとってのアゴラ的な存在。戦争など政治的な決断を迫られるとここに集まりオラクル(神託)を仰いでいたのだはないかという。ギリシャの影響が色濃いのは、エトルリア人が広域にわたってすでにギリシャ文化を広めていたことや近くにカプアやテアーノといった重要な都市があったことからごく自然な成り行きなのだろう、とは振興会の会長さんの見解。


マテーセは中世にもカプアとベネディクト修道会のモンテカッシーノの中継地点として栄えたストラテジックな場所だった。歴史に思いを馳せながら焼けつくような砂利道をみんなで下山、別れ際にはピエトラアボンダンテ遺跡(同じサムニウム人の遺跡)に来るなら案内してあげるよと言われ、すでにその気になっているわたしたち(笑)

さて、いつも遺跡巡りとセットで楽しみにしているのがご当地料理。ピエトラヴァイラーノの老舗レストランLa Caveja(ラテン語でCaviglia=カカト)でランチをいただくことになった。

地産の野菜や肉のみを使った美味しそうなものばかり。暑さで食傷気味かと思いきや食欲が湧いて来る。アンティパストの盛り合わせとオリーブとカッペリ、アリオ・オリオのスパゲティ、自家製のお菓子、カフェを満喫。遺跡と出会い、次の訪問の予定などなど、仲間とのお喋りも弾んで申し分のない一日だった。

















イタリアは二つの視線で眺めなければ真の姿は見えない、とは言い得て妙。歴史の目と現実の目、どちらが欠けてもまるで世界の見え方が違ってくる。そうと気づいただけでもわたしは運が良かったのだろうと思う。