2022年12月3日
バルセロナ、初めてのスペイン
2022年11月3日
アランが好きなわけ ③
この夏は機織りと編みものにたくさんの時間を費やした。「肩凝り、運動不足→温泉プール」の繰り返し、プラマイゼロ、それでも糸から離れられない・・。
編んだセーターは計6枚、すべてアラン。そのうちのひとつは、日本から持ってきた和棉の種から育てたコットンで編んだもの。友だちの自家菜園で2年に渡って和棉を栽培してもらい、毎年、籠にいっぱいの綿が穫れた。
東京とローマを頻繁に行き来していたわたしは、まとまった時間がなくて綿繰り(種を取り除く作業)は遅延、スピンドル(独楽)で紡いで糸にするにも時間がかかり、すべてを糸にし終わるのに3年以上はかかったと思う。日本製の綿繰り機 |
2019年は東京勤務を終えてローマへ帰るための引越しと同時に母のイタリア移住が重なり、堆積する諸々の手続きがひと段落したと思ったらコロナでロックダウン。これらの事情を静かに傍観しつつ紡がれるのをただ黙って待ち続けたコットンに「とき」が降臨する。
本当は布を織りたかったのだが、糸の強度がいまひとつ、織っているあいだに切れる恐れがあったため編むことにした。
種から育てた和棉の糸で編んだアランのカーディガン、自己満足の極みです。
母、89歳のイタリア生活⑥ Mamma, 89 anni, si gode la vita all'italiana
今年の山暮らしは6月前半から11月初旬まで、これまでにない長丁場となった。6月に入るとたちまちのうちにローマは熱波に襲われ、逃げるように山へ移動、待ち遠しかった温泉プールの湯治が日課となり、友だちや親類のあいだでも湯治はプチブーム、週3のペースが続いた。
心臓の持病のある母は医者に無理だと言われつつも、まったく問題なく炎天下でも泳いだし、わたしはなにもしていないのにコレステロール値が奇跡的に下がり、やはりこの山はワンダーランドなのではないかと思い始めている。食材なのか(確かにここの肉類や野菜はすべて美味しい)空気のせいか、自然のなかの生活はやはり違うのかも。
8月の後半は毎日のように夕立が降って、栗にとってもキノコにとっても待望の雨、村のご近所さんから続々とポルチーニやタマゴタケが届き、もう結構ですとお断りするほどだった。今年は栗も豊作で枝がしなって地面に届きそうな、これまでに見たことのない風景だった。ところが、豊作だと栗の価格は下がり、人手も足らず、いくら収穫しても元手が取れないという悪循環。収穫を諦めて放置する栗農家も少なからずあった。
今年はコロナで2年お休みだった栗フェスが再開された。10月から11月にかけて7週間、週末に限って開催される。総出店数90スタンド、町の広場に集中的に並べられる。3年前は、世界でいちばん大きな焼栗鍋がギネスに登録され、日本のテレビでも紹介された。クチコミで評判が広まり、ここの栗フェスは高速道路の出口から渋滞になるほどの人気となってしまった。4週末連続、比較的空いている午前中に母を連れて出かけた。いろんな栗菓子、ナポリの有名なピッツァ(移動式窯持参で参加)、アブルッツォやモリーセの特産品、蜂蜜、BBQ、ポルチーニ料理、パスタ、ソーセージ、ポルケッタ、秋の味覚満載。幸いお天気に恵まれ、来場者は週を追うごとに増える一方。
当初見込まれていた来場者数は2千人、それが3万人/日を記録し、4週目にはセキュリティ上問題があるのではと疑問視され、市長の決断で中断することになった。来場者が多いのはありがたいことだけれど警備体制が万全でなければ全責任は市長にかぶさってくる。反対もあった。どこかから絶対に中断させるなという圧力がかかったのだろう、なんとかして警備を増員してこの場をやり過ごそうとする向きもあった。なにかあったらコネや力でねじ伏せて・・、いやいや、いまどきはそういうのはもう無理なんです。
メガ栗フェスで大儲けしたひとたちは、もっともっとと期待が膨らんでいたはず、中断を口惜しく思われるでしょうが、コロナ禍でイタリアは多大な犠牲を出し、なにが大切か十分に学んだはず。「大丈夫、まさかそんなこと・・、なんとかなるさ」はもう通用しない。これまでの経験値では予測不能なことが起こる、実際に起こっている。韓国でのあの痛ましい事故がそれを証明している。
こんなに暖かい10月は初めてかも知れない。澄んだ空気のなか、湯気の立つ温泉プールは極楽の気分だった。来週からは寒くなるという予報、温暖なローマで冬を越して(まるで渡り鳥!)来年もまたこのワンダーランドを満喫できますように!
2022年8月17日
母、89歳のイタリア生活⑤ Mamma, 89 anni, si gode la vita all'italiana
夏の山暮らしもすでに2ヶ月が経過、環境が変わるたびに戸惑う母だが、週3回の温泉プール通いのルーティーンにもようやく慣れた。今年は6月初旬からすでに熱波に見舞われ始め、ローマを早々に離れたのだけれど、標高700mのここでも昼間はうだるような暑さ、ここで朝から扇風機をつけたのは今年が初めてだ。
心臓疾患のため温泉プールをとめられていたが、そんなの関係ない!と泳ぎまくる母。利用客のなかではおそらく最高年齢、プールサイドのバールでも顔パス、朝食のカップチーノとコルネットがおのずと出て来る。
栗林の山では豊作が期待できそう。どこもかしこも栗、栗、栗。ただ、今年はイノシシの被害が増加していて、夜になると大群で出没するため村中の犬が大合唱となる。穏やかな山の暮らしはどこへ行ったのか。窓を開ければ山焼きの煙(これは栗拾いの支度なので致し方ないとしても)、早朝の山仕事のトラクターの爆音、フェラゴスト(8月15日の聖母マリア昇天の祝日)周辺の連日連夜のお祭り騒ぎ・・・。騒々しい8月が過ぎると栗拾いが始まり、当分のあいだザワザワするのだろう。そして、10月からは栗フェスが開催される。コロナで2年停滞していたので今年は大々的に行われるに違いない。
ここの暮らしの難点といえば、村人のバリアの高さ、夏のあいだだけしか来ない(といっても4ケ月もいるのに!)部外者とは深くおつきあいしないという部分は徹底している。ところが彼らは好奇心の塊、少しだけ知りたい、少しだけ触れ合いたいというオーラで包まれている。小さな情報がひとり歩きして、尾ひれがついて、まったく別の物語が出来上がってしまっていたりする。もうひとつ気がついたことは、究極の村人に限らず一般的にここらのひとは開口一番「(息子に)彼女はいるの?」と、親でも気を遣うデリケートな領域にズカズカ踏み込んでくるということ。そこで、なぜなのかちょっと考えてみた。彼らにとって結婚はひとではなく家どうしのつながり、親類縁者の系図のなかで生きているといっても過言ではないので気になって仕方がないのだ。国際結婚がないわけではないし、移民としてアメリカに渡ったひとも多いのでオープンマインドなはずなのに・・・。夫はただただ破天荒なアヴァンギャルド、幻の日本人女性との結婚でなにかが変わったのだろうか・・ここはわたし(母も)にとっては異次元の迷宮、それはそれでまたワンダーランドっぽくて面白いんだけど。
ワンダーランドといえば、去年の夏、次男と海から山へ車で帰る途中、道を間違えて知らない村に入り込んでしまった。広場にたむろするひとたちは、中・高齢者なのだろうけれど子どものように目が輝いて、いきいきしていて、服装も子どものようにカラフルで・・「あ、ここは時間が止まっている」と思わずにはいられない。閉ざされた世界というのはこういうことなのね。そこを通り抜けて少し行けば大きな病院、いたって普通の世界があるのに(笑)
母はというと、最近はYouTubeで生まれ故郷の動画を観るのがもっぱらのブーム、テレビに父方の在所が映し出されるのが嬉しくて仕方がないみたい。ユネスコの無形文化遺産や指定文化遺産の観光名所で少なからず動画が存在している。毎日同じ動画でもあたかも初めてのように喜んで観ている母、一服の精神安定剤の役割を果たしてくれて本当にありがたい。わたしも母の歳になったら幼少時代によく遊んだ公園の動画で癒されるのだろうか・・・。
ここのところ眼が疲れるのか編物をしなくなった母に機織りを教えてみた。準備した縦糸に横糸のシャトルを左右に動かして通すだけ。でも、新しいことに挑戦するのはなかなかしんどそうで、長続きしなかった。やっとのことでマフラー1枚だけ織りあがった。
変わったことといえば、昨年モザイク・アーチストさんに依頼していた装飾が完成した。デザインは庭に植えてあるクサギと小鳥の水飲み場をそのまま絵にしたもので大理石だけで作っていただいた。飾る壁はここの休火山の岩石を用いているのだけれど、まるで壁から自然に生まれ出たような作品。さすが、アーチスト、奥深いものがあって感動・・記念碑にしようと思っています。
2022年6月12日
母、89歳のイタリア生活 ④ Mamma, 89 anni, si gode la vita all'italiana
年々夏の訪れが早まっている。ローマも5月半ばごろから暑さが増し気温が下がる気配もなく山の家への移動を少しだけ早めた。母にとって3回目のイタリアの夏だ。
慌ただしい荷解きのあいだの状況が読めない母に、
「去年と同じように秋までここにいるんだよ」と説明してもすぐに理解できないらしくハンドバッグを抱えて玄関にずっと座って待機している母、頭の中をなにが過っているのか、未知数、異次元・・。
「(邪魔だから)もう帰らなあかん」、混乱するといつものが出る、日本の生まれ故郷に帰らなあかんという意味でわたしたちもこの現実逃避の口癖にはもう慣れた。スルーする。
到着とともに気温が下がり、家のなかではセーターと靴下を着用するほど。そんななか夫が発熱、まる3日間うなされた。PCR検査で陰性とわかるとすぐにお医者さまが来てくれた。幸い風邪ということでようすみ。
庭のテイカカズラの花が満開で家のなかまで香りが漂ってくる。泰山木もすくすくと伸び(というか伸びすぎ・・)、去年の秋に植えてもらったフジもいまのところ順調。
去年の夏はブーゲンビリアとゴジも植えてみたけれど残念ながらひと冬で枯れてしまった。陽当たりが悪すぎる。
6月半ばはまだ学校の試験があったりするし、完全に夏休みに入ったわけではないので村の生活もオンタイム。夜ぐっすり眠れるのがありがたい。贅沢な悩みかも知れないけれど鳥の囀りがすごい・・・。
来週あたりから母もずっと楽しみにしていた硫黄の温泉プールに行ってみようと思う。
2022年3月17日
アランが好きなわけ ②
ネットで見つけたアンティーク・アランセーターの写真(上)から編図を起こして実際に編んでみました。なんども試し編みをして模様を再現するわけですが、なかなか大変な作業でした。
ここで、アランセーターの歴史についてちょっとおさらい。スコットランドの漁師たちのガンジーセーターがアイルランドの漁港に伝わり生まれたのがアランセーターですが、もともと定番の色は紺色、それが白になったのは、アラン諸島の男の子たちの堅信式の「晴れ着」が関係しています。
アラン諸島には「男の子は悪魔に拐われる」という言い伝えがあり、小さいうちは女の子と同じようにワンピースのような赤い服が着せられていました。男の子の格好ができるのは12歳の堅信式の儀式から。お母さんたちによって白いセーターが晴れ着として編まれるようになりました。20世紀初めのことです。
1920年ごろには、アメリカ帰りの手編みの天才マーガレット・ディレインの指導のもとに、島の女性たちが競うようにさまざまな柄を編み出したとのことです。
後身頃 |
後身頃の模様は写真が完全ではなくてイマジネーションを駆使させました。肩の部分は技術不足でどうしても写真の通りにいかず、悪戦苦闘の末に簡略化せざるを得ませんでした。糸はイタリア製ですがスペインから逆輸入しています。しっとりと滑らかで柔らか、重厚なアランセーターの風合いとはほど遠いものになってしまいましたが着心地は抜群です。次回はこちらもアイルランド製の糸で編んでみようと思っています。
母、88歳のイタリア生活 ④ Mamma, 88 anni, si gode la vita all'italiana
2021年末、変異株オミクロンの猛威でイタリアはクリスマスもお正月も返上ムード、わたしたちのところまでコロナの影響は及んだ。わたしはクリスマスの前日までブースター接種の副反応で熱が出ていたし、クリスマス明けには陽性者との濃厚接触の疑い、余儀なく自主隔離生活を強いられた(オミクロン対応で規制は緩いものだったけれど)。
そんななか母の白内障の手術日が決まった。前々日には薬局で抗体検査の陰性証明を取り、前日の朝は8時に病院へ出向いて血液検査と心電図を撮る。なにゆえ3時間もかかるのか、コロナのせいでのろのろなのか、ようやく検査と支払いを終えて翌日の手術を待つのみとなった段で、眼科医から「心電図に異常が見つかったので手術は保留となった、病院に話を聞きに行くように」との電話。青ざめて夫と二人で病院に駆けつけると「発作のような心電図だからすぐにでも検査せよ」と。
「・・・・?」
わたしたちには思い当たる節はまったくない。母は穏やかでいたって元気なのだ。
翌々日、心臓内科を受診したときにはじめて書類に添付されたその心電図が別人のものと判明(わたしたちは動転していて気づかなかった)、ドクターによればその「別人」ほどではないが母にもやはり異常はあり、手術が保留となったのは正解。そんなわけで、毎月ドクターの本拠地のクリニックに通院することになった。
ボルゲーゼ庭園の北にあるそのクリニックまでは歴史地区の乗り入れ禁止ゾーンを迂回しながらも多少は観光気分に浸れる道筋、月に一度のローマ縦断は悪くはない、帰途コリアン食材ショップに寄って和食材を調達するのも楽しい。東京オリンピックで一躍有名になった冷凍餃子、餃子の皮、有機納豆、有機豆腐、ポン酢、味噌、出汁の素、カレールー、そば、うどん、などなど。韓国の食材は品揃えが良いけれど文字が読めなくて未知の世界、よってパス。そして、コロッセオからチルコ・マッシモへ出て、カラカラ浴場の脇を通って帰って来る。
今日がその診察日だった。お世辞にも愛想が良いとはいえない強いて言うならば威圧的な雰囲気のドクター(もちろん腕は確かなのだろうけれど)が母のことを「フォルテ」と言うので、そのときは医者によくある親日家なのかと思っていたのだが、今日など心電図を見ながら感極まって「ファンタスティカ!」、「ペルソナッジョ!」と声をあげられた。この年齢で薬で心臓がみごとに返り咲いたことが素晴らしいのか、母の振る舞い(深々とお辞儀をして挨拶をしたり靴を脱いで寝台に上がったり…)が珍しいのか、診察室の隅で理解不能に陥っていたのだが、どうやらこれは母のことを絶賛しているからに違いない。
そういえば今日はいきなりヒロシマ・ナガサキについて母に聞いてきた。あくまで関心の対象は母であって、わたしは通訳、黒子、わたしではなくて母の意見が聞きたいのだと念を押された。「原爆が落とされたのをどうやって知ったのか」、「そのとき地響きを感じたのか」、「天皇陛下はなんと仰られたのか」などなど・・・そして、戦争など無意味なことだと無念そうにポツリ。
帰り際、意を決してなぜ母がファンタスティカなペルソナッジョなのか聞いてみた。「あの時代を生きたひとりの日本人であることが凄いこと」なのだそうだ。なるほど、その日本人の心臓を診ることがこれまた心臓の権威にとっては意味のあることなのかも知れない。ドクターはひとびとの「心臓」を通してどのような世界観を持たれているのか逆に興味津々。
来週にも89歳を迎える母、夏にはまた温泉プールで泳ぐのだと意気込んでおります。