トウキョウ・コットン・ヴィレッジで種をいただいて、
ローマで育ててみた和棉。
育つかどうか分らなかったけれど、とにかく試験的に蒔いてみました。
すると、夏にはこんなに綺麗な花が咲いてくれました。
そして、八月の盛夏には実が弾けて綿の顔が。
どうしてこんなモフモフなものが生まれるのか、
不思議でしようがない(笑)
スピンドルでくるくる紡いで・・・
煮沸して撚りどめをして・・・
コットン・ヴィレッジで紡いだものとローマでできたこの糸を合わせても、
大きめのピンポン玉二つくらい。
そこで思いついたのがこの機織り機でした。
木製フォトフレームに真鍮の丸釘を5ミリ間隔で打って。
編物の棒針に糸を巻きつけてシャトルにし、
縦糸を一本ずつ拾って横糸を通して・・・
原始的な織物ができました。
ゆっくりと時間をかけて、種という点から糸という線になり、布という面になる、その経過を、頭ではなく手先で感じる、なんという豊かな時間だったことでしょう。
糸がもっとあれば大きなものができる、そのためにもっと種を蒔いて収穫する。でも、これは、そういうこととは無縁の出来事でした。
以前、「じぶんのところに寄せる波のなかにいる魚をいただく」という文章に、はっとしたことがありました。
遠くに探しにゆかなくても足もとになにもかもあるという意識を大切にしたい。いつからかそんな風に思いはじめていました。友だちも、人間関係も、遠くに探しにいかない。もちろん、物理的な距離のことではありません。
ここで今とれた綿は、わたしにとって、とても意味のある綿なのです。
種から布ができるまでずっと寄り添っていたのは、じぶんのなかに「そうしたい」という思いがあったから。なにかに動かされたというよりは、むしろ土と光と水さえあれば自然に芽生えてくる種が持つ力のようなもの。
そういう力はきっとひとの中にあったのだろうと思う。農的時間というのは、そういうことなのだ。
日本を離れてあちこち転々と根無し草的な人生を送りながら、小さな和棉の種との無言のやり取りのなかで得たものは、かけがえのないものでした。