2020年9月23日

母、86歳、イタリアへ移住する〈夏の山暮らし〉⑩ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente! 〈vita estiva in montagna〉



結婚以来30年このかた、9月後半にこの山にいたことは一度もなく、今年はコロナ禍でわずかだった避暑客もいよいよいなくなって、寂しくなるやら落ち着くやら複雑な心境だったが、とにかく町には平常の生活が戻ってきた。この時期のひとびとの最大の関心事は栗。いつ、どの種類がどれくらい収穫できるか、雨はいつ、どれくらい降るのか、などなど。この山は、見渡す限りが栗の木に覆われていて、夏のあいだはせっせと草を刈って焼いて、秋の栗拾いに備える。まとまった雨さえ降れば本格的な収穫作業が始まるのに、なかなか降ってくれない日々が続いた。

今週になってようやく天気が崩れ出し、ひとびとの期待が高まった。と同時に、ここに来てから青々とした夥しい数の実を遠目に見ながら、それをずっと待ち望んでいたひとがいる。

雨が降った後、水分で重くなったイガイガが地面に落ちて割れ、実があちこちに散らばっている。車道ではタイヤに踏まれて潰れるものもたくさんある。

「もったいない・・」と母。

もったいないといえば、夫もまたもったいながりやで、野生のイチジクやインド・イチジクの実が熟して落ちてしまうのを放置できないタイプ。温泉プールへの道すがら、そういった木がいくつかあって、捥ぎどきを虎視眈々と狙っているのだ。イチジクなら簡単に捥げるが、インド・イチジクの方は、サボテンの実、棘がいっぱいで手で触れることができない。長い棒の先にナイフを取りつけてギコギコ、細心の注意を払いながら容器に収めて持ち帰るといった難易度の高さ、技を要する。「そこまでしてやる?」と思ってしまうのだが聞く耳持たず。言い出したら聞かないのは母も同じで、どうやら山育ちどうし気が合うのかも知れない。食べものや味の好みまでよく似ていたりする。

さて、雨が降ったところで、さっそく、母を連れて栗拾いに出かけることにした。私有地には入れないので、車道に落ちている栗が拾えるところに出かけると、あるわあるわ。まだイガイガのなかに籠っている実は、両足で挟んで開いて取り出す。拾い出したら止まらない、もっともっとと夢中になる母のなかでは、幼いころの栗拾いの記憶が鮮明に蘇っていたようだ。栗を拾って時空を超える母!「また明日にしよう」と、適当なところで打ち切らなければいつまでも拾っていただろう。

家に帰ってさっそくオーブンで焼いてホカホカをいただく。そうだ!ヴィン・サントも買い置かなければ!

この雨がもう少しまとまって降れば、来週にはポルチーニが顔を出すはず。山歩きがてら気合を入れて探してみようと思う。もちろん、母も一緒に。

 


↓この山に関する過去日記

母、86歳、イタリアへ移住する〈夏の山暮らし〉⑧

母、86歳、イタリアへ移住する〈夏の山暮らし〉⑨



2020年9月7日

母、86歳、イタリアへ移住する〈夏の山暮らし〉⑨ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente! 〈vita estiva in montagna〉)

 



正直なところ、たとえ夏のひと月とはいえ、結婚してしばらくのあいだ山の暮らしには馴染めなかった。この山特有の気質というか、閉鎖的な社会に溶け込むのは本当に困難なことで、事実、隣町から嫁いできた女性でさえ、「ヨソモノだから大変」とこぼしたりする。「隣町って・・すぐそこですよね・・・どうなる、わたし?」そもそも、ここのひとたちは、ヨソのことには関心がなく、町のダレソレがどうした、なにをした、ばかりが語られ(しかも難解な方言)、ヨソモノのわたしにはいっさいがヴェールに包まれた謎。夫はというと、生まれ故郷の山をこよなく愛し、普段いない分を取り戻すべく、1秒をも惜しんで駆け巡る。そんなジモティ以上の夫と100%ヨソモノのわたしの30年来の里帰り、いまだにどこか宙ぶらりんで、なんとなくふわふわと過ごしている。

そんなわたしのなかの「世界の果て感」がようやく薄れてきたのは、ネットが開通してからのことで、どれだけ気が楽になったことか。遠くにいても決して離れているわけではないという感覚が育ってくると、ここでの生活も少しずつ楽しくなってきた。息子たちは、まさしくそういう世代を生きていて、ここの暮らしは悪くないと思っている。しかも、このコロナ禍である。

山の国で育った母にとって、ここは、生まれ故郷の原風景と重なるものがあるのかも知れない。食事にもこだわりがなく、新鮮で無農薬のキロメトロ・ゼロ(地産地消)が合うらしい。和食を食べたいと言ったことは一度もなく、たまにお寿司でも食べられれば御の字、作る側としては大変ありがたい。

母にとって、「ここは日本とあまり変わらない」のだそうだ。ヨソモノ意識など、母にしてみればどうでもいいちっぽけな壁なのか、自然の前ではもはや言葉や文化も大したことではないのか。たまに妄想に陥ってすぐに逃げられるように荷造りしておく、とか宣うこともあるけれど(前途多難の兆し)、まずまずの前進といえるかも知れない。

ここは、満天の星空。ある夜のこと、子どものころから星を眺めるのが好きだった母が、「もし地球がなくなったらどうしよう」と言うので、「別の星に移住すれば良いでしょう」と答える。意識がぐんと広がるときもあれば、ほんの些細なことでイジケルこともある。人間ってすごい、と思う瞬間。

夏が終わるまでもう少し、しっかりと充電していこうと思う。


↓この山に関する過去日記 








2020年9月5日

母、86歳、イタリアへ移住する〈夏の山暮らし〉⑧ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente! 〈vita estiva in montagna〉)

 


6月、州またぎの移動が可能になったところで都会脱出計画を遂行、学業のある息子たちをローマに残し、母と夫と3人で山の家へ移ることになった。夏の休暇はいつもここで過ごしているが、今年はコロナ禍でその存在のありあがたみを特に感じている。

標高600m、休火山のカルデラ内に発達した町は人口3千人ほど、ミネラル・ウォーターの源泉地でもあり、山一帯は栗の木で覆われている。毎年10月に催される収穫祭では「世界一大きなフライパン焼栗」がギネスで認定された。

この町から車で30分ほど山を下りたところには、硫黄の温泉地もある。ローマ時代から利用されているまさしく「テルマエ・ロマエ」、多くの施設が年間を通して湯治に利用されているが、屋外の温泉プールはぬるま湯ていど、硫黄が溶けて乳白色に濁り独特の臭いが漂う。はじめは、そのゆで卵のような臭いが気になっていたが、もうすっかり慣れてしまった。温泉地とはいっても、30年前もいまも変わらず、観光地らしい土産屋も飲食店もなく、日本人のわたしとしては温泉饅頭のひとつも欲しいところだが、殺風景な山あいには施設のみが点在する。

わたしたちも、歳をとるにつれて頻繁に来るようになった。やれ腰痛だの関節炎だの、医者の処方箋があれば格安に治癒を受けられる。

今年はぜひ母も連れて来たかった。日本を発つ前から高血圧で足がむくみ、冬は足が冷え切って眠れないほど。というわけで、週に2回、混雑を避けて午前中のみというペースで通うことに。7月になるとコロナ対策をしっかり取って営業が再開となった。とはいえ、まだ利用者はほとんどなくて貸し切り状態。なんという贅沢!

母は、プールに入るまで自分が泳げること、泳ぎが大好きなことすら忘れていた。恐る恐る水に足を入れ、手を広げて平泳ぎを試みる。すると、水を得た魚とはこのことか、すいすいと泳ぎ始めた。そして、「子どものころはよく急流で泳いだものだ」と得意満面の笑みを浮かべる。2ヶ月たったいま、プールを一周するまでにもなった!

足のむくみもすっかり取れて、真っ黒に日焼けした母、健康そのものでまるで別人のようだ。

「次はいつ行くの?」と目を輝かせる母。この暑さなら9月いっぱいは大丈夫そうだ。



2020年9月2日

母、86歳、イタリアへ移住する〈番外編〉⑦ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente! - edizione extra

 


母のイタリアの移住の予兆らしきものは、わたしたちの東京赴任が決まった2013年の春からすでにあったのかも知れない。

2013年の冬、高校の同級生(Mちゃん)から、四女をローマでホームスティさせてくれないかというメールが届いた。「娘に直接メールさせるのでよろしくね」。そのメールのしっかりした文面から、この子ならきっと大丈夫と直感、引越しの準備でバタバタするけれど、こちらこそよろしくね、と返事した。

同年代の息子たちだけでなくわたしも、日本の女子大生との触れ合いなど皆無にひとしく、ソワソワ、ドキドキ。ほんの短いあいだのホームスティだったけれど、一緒にローマ観光やショッピング、メルカートめぐりと、楽しい毎日を過ごした。そんな彼女とは、東京に赴任してからもおつきあいが続いた。大学4年、就職活動のさなかだった。

めでたく就職が決まって、吉祥寺に出かけたある日のこと、「社会人になるまでのあいだ女子力を高めておきたい」という彼女。街を散策しながら、ふと、ある店の前で足が止まる。なにやらモフモフ、ふわふわ、原毛のままの羊毛が所狭しと置いてある。吸い込まれるようになかに入った。そこは、糸を紡いで機織りしたりするところ、講習もしている。ふたりとも迷わず予約をした。それ以来、わたしは糸紡ぎと機織りをこよなく愛するようになり、ローマで和棉を栽培、綿を育てて糸にするまでの凝りよう。合理的で効率のよい便利な生活に別れを告げ、時間を巻き戻すようなスロー・ライフに目覚めたのかも知れない。

そして、2019年の冬が来る。兄の逝去で実家にいるとき、彼女のお母さん(Mちゃん)に再会する。「介護のことだったら母に相談してみてください」と連絡してくれたのだ。ホームスティのメール以来、Mちゃんには一度も会っていなかったけれど、いつもの変わらない姿、歩くスロー・ライフのオーラ。

Mちゃんの介護経験談はとても役に立った。

「認知症の母も真剣なんだから、真っ向から正論で立ち向かっても適うはずないの。母の恒例行事にはこちらが合わせる。否定してはいけない。否定、怒る、このふたつはさらなる悪化を招きます。これは、自信を持って実証済み」

まだ、認知症とまではいかない母も、記憶が飛ぶことはしばしばあった。環境の変化で一度に多くのことを整理できないというのもあるだろう。でも、Mちゃんの話は、遠い先のことのようで明らかに「明日は我が身」だった。

「用があったらいつでも連絡して」というMちゃんの言葉には嘘がなかった。仕事から帰ってからわざわざ軽トラックで粗大ゴミの処分を手伝ってくれたり、ひとりでいるわたしを夕飯に連れ出してくれたり、施設の母を見舞いに行ってくれたり。

その春、娘さんはイタリアで結婚式を挙げることになっていた。わたしの一時帰国のタイミングとぴったりで、母のショートスティさえ決まれば、ローマを案内できるという信じられない展開となった。

斯くして、結婚式を無事に終えられたMちゃんご一行をローマでお出迎えする運びとなり、わたしたちは、春爛漫のローマを20kmは歩いただろうか。元気に歩ける健康があることに感謝した。

実家の家じまいに再び取りかかり、5月末までに家を明け渡すつもりであくせくしていたわたしに、Mちゃんは言った。

「お母さんをイタリアに連れていけ」

その言葉をきっかけに母の移住計画が動き出した。Mちゃんがもしわたしの立場だったら、きっとそうするのだろう。親をひとりで置いていって良いわけがない。それから、Mちゃんとは、老いゆく姿をさらけ出すことの意味をよく話すようになった。

「現在進行形なので受け手としては少々戸惑うこともあるけれど、何歳になっても生きるって素晴らしいと思えるようになってきました。この先、わたしたちの母親がどんなことを娘たちに伝えてくれるのか楽しみです。世界にたったひとつの教科書、お互い大事にしていきましょうね」

隠すべきでも否定するでもなく、ありのままを受け入れる。その機会を与えられたことに感謝しつつ。