母のイタリアの移住の予兆らしきものは、わたしたちの東京赴任が決まった2013年の春からすでにあったのかも知れない。
2013年の冬、高校の同級生(Mちゃん)から、四女をローマでホームスティさせてくれないかというメールが届いた。「娘に直接メールさせるのでよろしくね」。そのメールのしっかりした文面から、この子ならきっと大丈夫と直感、引越しの準備でバタバタするけれど、こちらこそよろしくね、と返事した。
同年代の息子たちだけでなくわたしも、日本の女子大生との触れ合いなど皆無にひとしく、ソワソワ、ドキドキ。ほんの短いあいだのホームスティだったけれど、一緒にローマ観光やショッピング、メルカートめぐりと、楽しい毎日を過ごした。そんな彼女とは、東京に赴任してからもおつきあいが続いた。大学4年、就職活動のさなかだった。
めでたく就職が決まって、吉祥寺に出かけたある日のこと、「社会人になるまでのあいだ女子力を高めておきたい」という彼女。街を散策しながら、ふと、ある店の前で足が止まる。なにやらモフモフ、ふわふわ、原毛のままの羊毛が所狭しと置いてある。吸い込まれるようになかに入った。そこは、糸を紡いで機織りしたりするところ、講習もしている。ふたりとも迷わず予約をした。それ以来、わたしは糸紡ぎと機織りをこよなく愛するようになり、ローマで和棉を栽培、綿を育てて糸にするまでの凝りよう。合理的で効率のよい便利な生活に別れを告げ、時間を巻き戻すようなスロー・ライフに目覚めたのかも知れない。
そして、2019年の冬が来る。兄の逝去で実家にいるとき、彼女のお母さん(Mちゃん)に再会する。「介護のことだったら母に相談してみてください」と連絡してくれたのだ。ホームスティのメール以来、Mちゃんには一度も会っていなかったけれど、いつもの変わらない姿、歩くスロー・ライフのオーラ。
Mちゃんの介護経験談はとても役に立った。
「認知症の母も真剣なんだから、真っ向から正論で立ち向かっても適うはずないの。母の恒例行事にはこちらが合わせる。否定してはいけない。否定、怒る、このふたつはさらなる悪化を招きます。これは、自信を持って実証済み」
まだ、認知症とまではいかない母も、記憶が飛ぶことはしばしばあった。環境の変化で一度に多くのことを整理できないというのもあるだろう。でも、Mちゃんの話は、遠い先のことのようで明らかに「明日は我が身」だった。
「用があったらいつでも連絡して」というMちゃんの言葉には嘘がなかった。仕事から帰ってからわざわざ軽トラックで粗大ゴミの処分を手伝ってくれたり、ひとりでいるわたしを夕飯に連れ出してくれたり、施設の母を見舞いに行ってくれたり。
その春、娘さんはイタリアで結婚式を挙げることになっていた。わたしの一時帰国のタイミングとぴったりで、母のショートスティさえ決まれば、ローマを案内できるという信じられない展開となった。
斯くして、結婚式を無事に終えられたMちゃんご一行をローマでお出迎えする運びとなり、わたしたちは、春爛漫のローマを20kmは歩いただろうか。元気に歩ける健康があることに感謝した。
実家の家じまいに再び取りかかり、5月末までに家を明け渡すつもりであくせくしていたわたしに、Mちゃんは言った。
「お母さんをイタリアに連れていけ」
その言葉をきっかけに母の移住計画が動き出した。Mちゃんがもしわたしの立場だったら、きっとそうするのだろう。親をひとりで置いていって良いわけがない。それから、Mちゃんとは、老いゆく姿をさらけ出すことの意味をよく話すようになった。
「現在進行形なので受け手としては少々戸惑うこともあるけれど、何歳になっても生きるって素晴らしいと思えるようになってきました。この先、わたしたちの母親がどんなことを娘たちに伝えてくれるのか楽しみです。世界にたったひとつの教科書、お互い大事にしていきましょうね」
隠すべきでも否定するでもなく、ありのままを受け入れる。その機会を与えられたことに感謝しつつ。
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