2024年10月11日

ピエトラアボンダンテの古代遺跡とカステルペトローゾの巡礼地(モリ―セ州)







古代サム二ウム人の最も重要な古代遺跡群(紀元前4~5世紀)のあるピエトラアボンダンテ(モリ―セ州イセルニア県、標高1000m)を訪れた。

サム二ウムは現在のモリ―セ、カンパーニャ、アブルッツオ、プーリア州に渡って広く定住していた人々で、連邦共和制の形態をすでに築いていた。

この遺跡のあった場所は、政治・宗教・公的行事の場として長いあいだ守られてきたが、ローマに敗れてからはローマ人に引き継がれ、やがてキリスト教の広まりと同時に廃墟と化していった。(第2次ポエニ戦争でローマに加担した罰としてハンニバルによって破壊されたというエピソードもある)


遺跡群はピエトラアボンダンテの町に入る手前のなだらかな傾斜に広がっており、冬至に太陽が昇る方角を向いている。視界を遮るものは一切ない。ピエトラ(石)アボンダンテ(たくさん)の名のごとく、資材にはこと欠かなかったことがうかがわれ、規模は大きい。

半円劇場と神殿がセットになっている遺跡はサム二ウム人の特徴で(ローマは神殿とセットにしない)、政治・宗教・公的行事に利用されていた。ギリシャのアゴラ的な機能を持っていたといわれる。

劇場の下から5段目までは座席の背もたれが湾曲した2人掛けソファタイプ、今でいう腰椎に優しいランバーサポートタイプ、オリジナルが当時のまま残されている。






手摺にはグリフォン(上半身鷲下半身ライオンの伝説の生き物)の足が象られ、天空を支えるアトラスの像なども施されている。ローマ時代にはさらにボッテーガや新たな神殿も追加された。サム二ウム人は自由を愛しローマととことん戦うことを選んだ人々。この山あいならば彼らの方が有利だったことは一目瞭然なのにローマの勢いは彼らをも支配してしまった。





遺跡巡りのお楽しみご当地ランチはタベルナ・ディ・サンニーティで。自家製パン、霜降りがとろける生ハム、カチョチーズと卵をこねたパロッテ、タコッツェという手打ちパスタ、子羊の炙り焼き、カチョ・ペペのパスタを賞味。







午後はそこから車で30分ほどのところにあるカステルペトローゾの大聖堂に行ってみることにした。ここはファティマやルルドのように聖母マリアご出現のしるしに1880年から建造開始され1975年に完成された新たな巡礼地で、緑を背景に聳え立つ姿はガウディのサグラダ・ファミリアを彷彿させる存在感がある。宗教画もステンドグラスも渾身の作、ぬくもりを感じられる大聖堂だ。











モリ―セからの帰途、ほんの1~2時間の車の移動で景色も文化も変わるイタリアの多様性を思わずにはいられなかった。

わたしたちが夏のあいだ過ごすロッカモンフィーナはカンパーニャ州最北端の休火山のカルデラに発達した町。北はラッツィオ州、東北はアブルッツオ州、東南はモリ―セ州と接しているけれど山そのものはカンパーニャ州に属している。色々な州から影響を受けつつどこにも属していない独特な空気感がある。

火山のカルデラは湧き水に恵まれ土地も肥沃だ。人々はその恩恵を受けつつ栗の収穫を生業としている。その収穫に要する日数は年に一か月にも満たない。「働かなくてもやっていける」ゆとりのある暮らしも昨今は若者の流出、少子化、高齢化により収穫の人手が足りず外国人季節労働者が増えている。

さまざまな影響を外部から受けつつカルデラの内側で反芻しながら成長する町であって欲しいと願ってやまない。

2024年10月8日

アッピア街道の要所、カプアのローマ遺跡





サンタ・マリア・カプア・ヴェテレ(旧カプア)はローマ時代のアッピア街道の最初の終着点(後代ベネヴェントを通ってブリンディシまで延長された)でローマからナポリへ南下するにも必ず通る要所。

紀元前数世紀からエトルリア、サム二ウム文化を経て古代ローマに吸収されていくが、なんといってもコロッセオと規模的には同等のアンフィテアトロ(闘技場)があり、グラディエーター(剣闘士)の養成所もあった場所。ローマの敗戦国からの奴隷、出稼ぎ、あるいはスターになるために養成所にやって来る者もいたのだとか。

キリスト教が公認されてからすべてのローマ遺跡や異教文化は排除となり、崩され、奪われ、廃墟と化す。この闘技場の大部分(外壁、柱、上部2階部分がすっぽりとなくなっている)も教会などの建築資材として持ち去られてしまった。


ところが地下部分はほぼ形状を残していて、保存状態も良好、階下に降りて見学することができる。カプアの語源は「沼地」に由来しており、その名の通り雨の多い季節には地下部分は水浸しになることもあるとのこと。それが幸いしてか資材を持ち運ぶことができなかったのかも知れない。












闘技場の横にはグラディエーターの博物館もあり(小ぢんまりしているが)、広い公園は市民の憩いの場所のようだ。


ここから徒歩で10分ほどのところに考古学博物館とミトラ教の神殿もあり闘技場の共通券で入場が可能。

ミトラ神殿は紀元前2世紀ごろローマ時代のもので1922年建築作業中に偶然発見された。密儀宗教のため残された資料や情報が少ないが、ミトラ教はオリエントが発祥の地、カプアでは東方から来た剣闘士が伝え広まったのではないかと言われている。


7つの厳しいイニシエーションを経て入信が認められ、ミトラ(太陽神)が屠った牛の血を頭からかぶって力を授かるのだとか・・。

地下へと階段を下りて行くと細長い空間があり、正面奥にミトラ神が牛を屠るフレスコ画がある。色も鮮やかで空間は宇宙をイメージしたフレスコ画で飾られている。手前の両脇には聖餐の儀式のための横臥食堂が並んでいる。

ガイドさんに「ミトラ神って聖ミカエルに似ていますよね」と尋ねてみた。キリスト教はミトラ教との共通点が多く布教のためにミトラから取り込んだ要素も多いとの返答。例えば、12月25日の冬至(太陽が成長期に入る)は実はミトラ神の生まれた日とされており、キリストの生誕となったのもこれに由来するのではないかと。


















旧カプアを後にし歴史博物館のある新カプアへと場所を移す。新しいとはいえ紀元9世紀ごろにできた町で旧カプアから数kmのところにある。


ロンゴバルディ教会前にはカプアこそイタリア語発祥の地と記された記念碑が建てられいるが、フリードリッヒ2世の宮廷があったパレルモではすでにイタリア語文化が花開いていたので多少の疑問は残ったものの、フリードリッヒ2世が練らせたカプア憲章と呼ばれる条例はラテン語ではなくイタリア語であることからカプア発祥とされたのかも知れない(自説)。




歴史博物館で特筆すべきは地母神の多さ、その数に圧倒される。この辺り一帯が豊饒の地として長いあいだ栄えたことがうかがわれる。










遺跡巡りとセットのご当地ランチ、今回はカプアから5kmほど内陸に入ったところにあるサン・タンジェロ・イン・フォルミスまで足を延ばした。山麓に発達した小さな町でベネディクト修道会のカテドラル(6世紀)がある。




内壁一面に描かれたブルーを基調としたフレスコ画の美しさに目を奪われる。前庭からの眺めは左手のソレントから右手のファレルノまで見渡せる高台になっており、異変があればすぐに察知できるストラテジックなロケーション、サラセンの海賊が攻めて来たらご本山のあるモンテ・カッシーノにすぐさま使者を送ったのではないかと思われ、さすがベネディクト修道会。


ランチをいただいたレストランはカテドラルのすぐ横、窓からの眺めも内装もお料理も申し分なかった。







アッピア街道が世界遺産に登録されたことで、この辺りに埋もれているローマ遺跡(まだまだたくさんある)が今後少しずつ整備されていくことを期待したい。帰路、街道沿いにあるカレスの遺跡に立ち寄ってみたけれど、悲しいかな、とても立ち入れる状態ではなかった。ここにも半円劇場やテルメなどが埋もれているのだが・・。