2023年11月24日

東地中海クルーズの旅 ④


次の目的地はクレタ島。クノッソス神殿とアギオス・ニコラウスという島周遊のエクスカーションにUS友たちと出かけることになった。今回は英語とドイツ語2人のガイドさんが乗車、バスの前方は英語、後方はドイツ語と別れて乗り込み、同時に2ヶ国語で説明しながらの運行。

クノッソス神殿は当時の想像図を片手に熱心に説明してくれたのでリアリティ、臨場感のある遺跡巡りに変身、ミノア文明の奥の深さが伝わった。ギリシャ・ローマ時代の遥か昔にその土台ともいえる文化を作りあげていたという知恵袋のようなクレタ島。神話の世界に引き込まれそうな時間だった。クノッソス神殿から1時間ほどバスで移動するとアギオス・ニコラウスという高級リゾートに到着する。その海岸には牛に化けたゼウスの上に座るエウロパの大きな像が。神話ではエウロパ→ヨーロッパはここから始まっていた。







ここで奇跡のようなお話をひとつ。日本に住んでいたので日本語ができるというUSご夫婦を紹介される。それが、わたしが結婚当時住んでいた東京の同じ区、同じ町、歩いて行ける範囲だったというから驚いた。そして、あろうことか、わたしが長男を出産した同じ病院でその奥さまも2か月違いで出産されていたのだという。もしかしたら、病院の母親学級で一緒だったかも・・。もしかしたら、近くですれ違っていたかも・・。

それから30年、一方はUSから、もう一方はイタリアから、クルーズのエクスカーションで同じバスに乗り合わせ、クレタ島まで来ちゃうというちょっとあり得ないお話。

そんなわけで、この日もめちゃくちゃ盛り上がり、ランチタイムは大テーブルを囲んでワイワイUS友たちと会話が弾んだ。話しているうちにみなキリスト教の信者だとわかり、納得。そもそもこのクルーズの最終目的地はエルサレムだったのだから。


クレタ島から帰った後はのんびりクルーズライフを楽しむ。その日の夜は、ホワイトデー、白いものを身につけての夕食らしい。意味はよくわからなかったけれど、とりあえず・・。

2日間の航海の後はジェノヴァ、エーゲ海を過ぎてイオニア海に入りメッシーナに近づくころ、再び海が荒れ始めた。この辺りはいつも波が高いのか、船は揺れた。メッシーナ海峡を過ぎてそのまま北上かと思ったら、シチリア島の北岸を航海、サルデーニャとコルシカが見える距離でジェノヴァへ向かっていた。地図上ではティレニア海をそのまま北に向かう感じがしたが、地球は丸い、二次元とは違う路線になるのだと友だち。納得。

悪天候のためか、人数が満たなかったためか、ポルトフィーノとサンタ・マルゲリータのリヴィエラのエクスカーションはキャンセルとなった。

ジェノヴァ到着の前日、強風のため船のどこにいても風がスース―していて、喉が痛くなった。ジェノヴァ散策は無理かも知れない、と思っていたら案の定、朝起きられず。薬を飲んでキャビンで休むことにした。友だちは、お目当てのペスト・ジェノヴェーゼと旧市街めがけて颯爽と出かけて行った。


喉の痛みはなんとか治まったものの、コロナの懸念もあったので(といっても5月に感染済み)マスクをして大人しくしていた。友だちは一日じゅう歩き回ってへとへとになって帰って来た。とりあえず目的は達成。が、イスタンブールにも中世には200年ものあいだジェノヴァ地区があったほどの一大海運都市ジェノヴァ、その栄光が残る旧市街は迷路のように入り組み、裏道に迷い込んだら出てこられないのだそう。そして、船から旧市街までの距離!船があまりにも大きいために市街地がすぐそこのような錯覚に陥ってしまう。これは、ストックホルムですでに経験済み。歩けど歩けど到着しないのだ。30分もあれば大丈夫と見込んでいたらたぶん1時間半はかかるのだ。実は、ジェノヴァはニース大学に留学中、イタリアへよく遊びに行っていたので、電車でなんども通ったことがある。ただ、下りたのは一・二度で、暗くて古い町という印象しかなかった。それが、ヨーロッパ最大の水族館もでき、港湾地区も整備され、街並みもチンクエテッレのようにカラフル・・。今回はご縁がなくて下りられなかったけれど、またいつかリベンジの旅をしたいと思う。

キャビンで待機していたわたしはすでに翌日の下船のための荷造りを開始、前夜、キャビンの前の廊下にスーツケースを出しておいて、手荷物だけ持って下りる仕組み。重い荷物から解放されつつの旅は本当にありがたい。

下船はチヴィタヴェッキア。乗船のときも感じたことだが、トライアーノ帝の時代まんまかい?的な遺跡あるあるの古代ローマの港町、乗船客はシャトルバスでそれぞれ船まで送迎される。チェックインはパスポートを提示するだけ、オンボードカードを渡され手荷物検査を済ませ乗船。下船のときも同じく、自分のスーツケースをシャトルバスに積んでターミナルまで送ってもらう。そのターミナルの名前、Largo della Paceという。どこから取ったのか、トライアーノ帝に聞いてみたくなる。数日後のニュースで知ったのだが、このチヴィタヴェッキア港に対抗すべくフィウミチーノ空港にもクルーズの寄港地が建設開始されるとのこと。空港やローマ市内にも近くなれば、クルーズ船の数も増えるのではないかと密かに期待しているわたくし。

今回のクルーズは船を楽しむというよりは目的地を楽しむ方に重点を置いていたので、個人的にはこのコスパよくこれだけ網羅できて良かったと思う。次回は、船と寄港地の双方を考慮して選びたいと思うのでした。

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ここで、今回のクルーズのあいだ家で留守番していた90歳の母のようすにも触れておきたい。夫が全面的に面倒を見ていたくれたのだが、息子たち二人の協力も間違いなくあった。母には、ずいぶん前から「〇〇ちゃんと旅行に行くからよろしくね!」と話してあったのだが、それがどんな旅でどれくらいの期間なのか詳しい説明はしていなかった。言ってもすぐに忘れてしまうし、わたしがいなくなって逆に「置いてけぼりになるのではないか」という妄想が膨らんではいけないと思ったからだ。それが、意外にも穏やかな日々を過ごしていたとのこと。初めはわたしがいないので家のなかを探し回ったりもしたが、そのうちに慣れて、食事も身の回りのことも問題なかった。なんとなくだが、ビデオ通話での母の顔から想像するに、わたしの無事を気遣っていたような気がする。次回のクルーズは母もと内心思ったりする。問題はクルーズではとにかく歩くということ。船がそもそも大きいので食事や娯楽のための移動だけでもかなり歩く。それに加えてエクスカーションに出ればもっと歩くことになる。車椅子か自力か・・ともあれ、一度は連れて行ってあげたいと思うこのごろです。


東地中海クルーズの旅 ③


次の寄港地はいよいよイスタンブール。急いで『コンスタンチノープル陥落』を読んできたので、位置関係はだいたい把握していたけれど、現実と想像はかなり違うもので・・・ダーダネルス海峡を通過したのは真夜中、海は凪いでいて気温も温暖、マルマラ海も穏やかな航海だった。

朝になって先方に見えてきたのはボスポラス海峡に跨って東西になだらかに広がる異国情緒のイスタンブール、これはもう感動しかない。接岸デッキは空港のような造りになっていて近代的、お洒落な飲食店やブティック、免税店がズラリ。




イスタンブールのエクスカーションは、二つのモスク(アヤ・ソフィアとブルー・モスク)と考古学博物館、トルコ料理のランチ、バザールというコース。ただ、わたしはイタリア語、友だちは英語のバスに別々に振り分けられ、別行動ということになった。ブルー・モスクは海側からの眺めがブルーに輝いて美しいと言われたのがその名の由来、本当はスルタン・アフメト・モスクという。初めてモスクに入ったわけだが、入場取説、きちんとした服装、女性は必ず髪を隠すこと。スカーフやショールを持参していない場合は入り口で購入できる仕組みになっている。髪だけかと思いきや、コート状の大型なものを纏っている女性も見かけた。ショートパンツとかミニスカートだったりしたのだろうか・・?


モスクの脇に水道の蛇口と石造りの椅子がズラリと並んでいたのだが、そこで、手だけではなく腕や足など、しっかりお清めをしているひとがいた。ガイドさんによると、お清めもいろいろと順番が決まっているそうな・・。





ここは、わりとさっと見て、次は本日の目玉のアヤ・ソフィア。何度も被災して再建されたので、どの時代にどんな宗教の聖地だったのか遡ると非常に興味深い。古代宗教→キリスト教→イスラム教→無宗教→イスラム教、かな。宗教が変わっても内装を変えずにわりとスムーズに利用できたのも、エルサレムとメッカがイスタンブールから見てほぼ同じ方角(僅かなズレ)だったからだといわれ目から鱗。床の絨毯のラインがキリスト教会の建築に対して少しズレているのがわかる。再建用の柱はエフェソスから拝借したり、どこどこのローマ遺跡から持ってきたり、と資材には事欠かないトルコ領。

イタリア語のガイドさん、丁寧に詳しく説明してくれたのだけれど、バスの送迎は朝と夕方の旧市街の入り口まで5分程度の道のりのみで、残りはすべて徒歩、つまり、朝9時半くらいから18時まで、ランチ休憩以外はずっと歩き続け、疲れ果てた。旧市街を歩き倒した感じ。そのおかげでコンスタンチノープルを体感できたのだろうけれど。

ランチといえば、アヤ・ソフィア真ん前のお洒落なテラスで、何種類かの前菜と子羊のソースがかかったマッシュポテト、そしてパンナコッタ風のデザート。美味!






考古学博物館にはアレキサンダー大王の石棺と呼ばれる見事な出土品が展示されていた。トロイの興亡、ごく僅かだったがエフェソスの出土品なども。博物館の敷地内には古代ローマの遺跡の欠片がゴロゴロ放置されていて、置き場に困っているようす、カフェテラスの装飾になっていたという贅沢さ!





ローマ時代の遺跡ヒッポドロモ(競技場)を突っ切ってバザールへ向かう途中、二度目のアダーンが聞こえて来る。初めて聞いたときは鳥肌が立ったけれど、二度目はすでに慣れた。これが一日に5回、どれくらいのひとがお祈りに行くのだろう。




ヒッポドロモからさらに歩いて次の目的地はバザール。かなりの距離だったがトレッキングポールなしでよく頑張ったよ、わたし。バザールに入場する前に注意点などの前説、「値段はあってないも同然なので交渉するように!」だとか、「迷路のようになっているので必ず1番の入口から出入りするように」だとか。

そこでご婦人が質問、「ブランドものがたくさんあるけれど本物をここで生産しているのか?」ガイドさんも答えに困り「あ~、職人さんの腕がいいので・・」と言葉を濁す。なわけないじゃん、と全員が思ったであろう瞬間だった。バザールの場内は換気が悪く、タバコやお香、お茶、スパイスの臭いが充満していた。しかも、雑踏の熱気というか、もわーっとした空気が漂っていてちょっと不安だったのでランチで同席だったイタリア人ご夫婦の後をついて行くことにした。出口を間違えたら船に帰れないという強迫観念に襲われ・・。そうこうしているうちに、英語組で別行動していた友だちにバッタリ鉢合わせ。なんという奇遇!イスタンブールの夜は疲れ果ててビュッフェでさっと夕食を済ませた。出航が23時だったのでハーバーに足を延ばしてみたものの、店舗はいわゆるヨーロッパの町ならどこにでもある店ばかり、富裕層の遊び場という感じだった。


この日、友だちが英語圏のひとたちと情報交換ができたことでクルーズ・ライフの空気感も変わってきた。わたしたちは、夕食のテーブルを彼らのところに移してもらうことにした。わたしは英語はぺらぺらと話せなくても一応理解はできるので、USのひとたちに合流。カリフォルニア(米とメキシコ)、フロリダ(米とコロンビア)、バージニア(韓国)の3組のカップルと同席し、スペイン語と英語が飛び交う国際色豊かなテーブルになった。




東地中海クルーズの旅 ②



さて、船はアテネのピレウス港に接岸し、早朝からアクロポリス、アテネ考古学博物館、プラカの旧市街ランチというエクスカーションに出かける。ガイドさんは英語とイタリア語のバイリンガル。説明の時間が倍かかるので単純に考えれば半分の量の情報しかもらえないことになるが、このガイドさん、早口で一生懸命バイリンガルしていた。

アクロポリスは念のためトレッキングポールを2本持参したけれど、階段は緩やかで難なく上れた。ただ、ひと、ひと、ひと、その朝だけで85団体が入場するらしかった。夏のハイシーズンだったらどうなるのだろう。上りは順調だったが問題は混雑がピークとなってきた下り、あの狭い階段、手摺もなくつるつるした石のステップをあれだけの人数がいれば、だれかが転んだら雪崩式に滑り落ちてしまう。時間の問題のような気がした。危機管理が緩いアクロポリス・・。


考古学上調査はこの先まだ続きそうだが(永遠に終わらない?)、これだけのひとが押し寄せては足を引っ張られるのではと思ってしまう。ともあれ、実際にそこに行って五感で感じることができたので大満足。

折しもこのパルテノン神殿のスーパーヴァイザーだったフィディアというアテネ黄金時代の彫刻家の展示会が今日(2023年11月24日)からカピトリーノ美術館で始まる。なんというタイミング!じっくりゆっくり見学できるので嬉しい。

ちなみにイタリアでは月の第一日曜日はすべての美術館・博物館・遺跡が無料となる。ギリシャも同様らしい。

考古学博物館へ向かい早口で説明をしてもらう。一夜づけではとても無理な展示数、また勉強して出直すべしと心に誓う。

その日、旧市街のプラカではデモがあり、バスで乗り入れ不可とのこと。現在のアテネの実態が見られないのは残念だったが仕方ない。


アテネよさらば、次の寄港地はイズミール、念願のエフェソスが待っている。

さて、イズミール、トルコの大きな港町だが、今回はそこからエフェソスまでトランスファーのみ予約した。片道1時間半くらいかかるので現地ではあまり時間がない。到着、急ぎ足で入場券を購入しに行く。が、チケット・ボックスの女性は英語が話せず、何種類もある入場券の英語の説明もない。ドルもユーロも受けつけていないし、どうしよう・・。博物館込みで950トルコ・リラ(為替はまったくわからなかった)が妥当とみて購入する。ここで、わたしは大失敗をおかすのだ・・。






古代アルテミス神殿、古代ローマ、後にはパオロがここでキリスト教を布教し、聖母マリアの家もあるという、ここだけで西洋史が語れてしまうくらいのスケールの遺跡。しかも、ポンペイよりも保存状態は良いかも知れなく(資金がないのかもっとケアして欲しいと切に願う)、本来ならば半日くらいとどまって物思いに耽りたい気分・・・が、1時間半しかない。目的は博物館、足早に歩いて行くととうとう出口まで来てしまい、係員に尋ねると、「博物館はここにはありません。この遺跡すべてが考古学博物館なんです」とちょっとわけのわからないことを仰る。で、結局入場料に含まれていたのは遺跡内の展示のことで、慌てていたあまりにそこを端折ってしまった自分が悔しい・・後の祭り。考古学博物館は後で調べたらセルチュク市内にあるようで、そこに立ち寄る時間はなかったということ。でも、ターキッシュ・デライツのお店に連れて行く時間はちゃんとあって、30分もショッピングに割いたのだ。興味津々で下りて店に入ってゴマのようなきな粉のような香ばしいお菓子を試食、美味しい!というわけで、ハルヴァとロクム(大好物の求肥に似ている)をどっさりお買い上げ。




この町にはまた戻って来たいとつくづく思う。





東地中海クルーズの旅 ①



今回クルーズのお誘いを受けたのは昨年の暮れのことだった。2019年還暦祝いにと北欧~バルト海クルーズを計画した大学の同級生から再びお声がかかったのだ。当初9割がた無理だと思っていた。うちには90歳の母がいるし、わたしは股関節が悪くてさくさくと歩ける状態ではなかったからだ。

ところが、うちの家族は話がわかる。10日くらいなら母の面倒もなんとかなるだろうし、足腰の痛みもしっかり鍛えて治せば大丈夫だろうという。それからというもの、クルーズ計画に没頭する日々を送ることになった。

気になっていたコースはチヴィタヴェッキア、メッシーナ、ロードス島、キプロス島、エルサレム、クレタ島、ジェノヴァという東地中海航路。これがちょうど日程とマッチした。旅行会社に頼むまでもなく自らオンラインでブッキング。前回の北欧クルーズ同様、今回もクルーズ仲間3人で行くことに。

せっかくの数年に一度のクルーズなので各自下調べをしっかりしておこうということになり、積読状態だった塩野七生先生の『ローマ人の物語』を読みなおしながら、キリスト教関連、十字軍関連、とにかくこの巡礼クルーズに関するものならなんでも。とはいえ、地中海関連は奥が深くて数千年遡らなければならない。時間が足りない・・。

6月から出発10日前までの5か月ほどは山暮らしでのんびりと休養しながら山登りや温泉プールで鍛え、股関節に最適の運動靴とトレッキング・ポールもゲット。けれども、今回のクルーズの旅はあたかもだれかに引き止められているかのような出来事の連続だった。

この年齢になればなにもない方がおかしいわけで、一人は残念ながら家庭の事情でキャンセルとなってしまったが残りの二人はなんとか行けそうな雰囲気、最終決済とウェブ・チェックインが完了したと思いきや、エルサレムがあんなことに・・・。

土壇場のクルーズ会社は三つの選択肢を提案してきた。①無料で今回のクルーズをキャンセルする。②別のクルーズに変更する。③このまま続行する。

わたしたちは、迷わず続行を選んだ。ただし、航路は変更となり、ロードス島、キプロス島、エルサレムの代わりに、アテネ、イズミール、イスタンブールとなった。

読んでいた『ローマ人の物語』も最終巻に差しかかっていた。西ローマ帝国が滅びつつあるなか権力はコンスタンチノープルへ移り、いきなりの航路変更で、まさにその東ローマ帝国の都へ行こうとしているのだ。そして、イズミールからはあのエフェソスにも行ける。そう思うと、わたしにとっては嬉しい航路変更だった。

チヴィタヴェッキアから乗船した船は、今回のクルーズの後、お蔵入りするらしいと耳にした。それほど古臭いという印象でもなく、施設は整っているし管理もされている。リノヴェーションなのか。この会社、ここ数年のうちにぴっかぴかの新エネルギー船舶を数隻世に送り出している。いまや、クルーズは航路ではなくて船で選ぶ時代、動くテーマパーク。いや、動いていることすら感じないのかも。

最初の寄港地メッシーナまでは暴風でゆれっゆれ、タオルミーナのエクスカーションは悪天候でキャンセルとなり、徒歩で町を散策することにした。コロニアル風の建物はスペイン統治の影響なのか、南米のどこかの町にいるような感じがした。


わたしたちは、ただただ本場のシチリア菓子カノッリを求めて歩いた。サクサクの筒の中にフレッシュリコッタクリーム、これまで味わったことのない最高の食感、味だった。それから丘の上の教会まで足を延ばし、メッシーナ海峡を一望する。絶景だった。




メッシーナもあれですが、なんといっても印象的だったのはストロンボリ。イングリット・バークマンの映画『ストロンボリ』を思い出す・・。






ここでこの船の第一印象を述べると、クルーが無駄に愛想を振りまくような光景は1ミリもなくひたすら事務的対応(前回のアメリカの船はめちゃくちゃ愛想が良かった)、これも、コロナ禍後で意識の変化があったのかと思ってしまう。愛想よりも安心・安全な航海に真剣に取り組む、というような姿勢。

そして、イタリアの船なのに、あれ?と思うほどイタリア語ができるクルーが少ないのに驚いた。実は、この船は5か国語対応を売りものにしているらしく、避難訓練などは多言語は確かにありがたいけれど、ならば、手話も入れるべきではないかと思ってしまう(実際耳の悪いご老人もおられた)

ともあれ、言語に関しては思うところ多々あり、例えば、友だちは英語のネイティブ・スピーカーだが、イタリア人とのテーブルにセットされてしまい、わたしが通訳をしていたもののイタリア人たちも英語はまったくできなくて、会話は弾まずなんだかな~という雰囲気で5日が過ぎてしまった。そのあたりの振り分けももう少し配慮してくれていたら良かったのにと思う。