2024年6月26日

結婚式はアマルフィで 

 


甥っ子から招待状が届いたのは今年の4月だった。場所はアマルフィ海岸!

さてさて、母はどうしよう・・ひとりで留守番は無理、たとえ1分たりとも無理(数時間息子に預けてお葬式に出席したとき大騒ぎをした!)

6月になればわたしたちは山の家に移動している、そこからアマルフィは車で1時間半ほど。日帰りで行けないことはない。だが、披露宴が終わるのは夜半過ぎ、夜道のドライブはしんどい・・・。

母を置いていくとしたらローマから息子たちに来てもらうしかないのだが・・、少なくとも一泊できたら・・・と宿屋を探していたら、ミノーリのB&Bに一部屋だけ空きがあった!こんな機会でもなければゆっくりアマルフィ観光などできない、ということで、なるようになれとばかりに二泊予約してしまった😅


その週は、イタリアほぼ全土がサハラの砂塵混じりの熱波に覆われて蒸し暑かった。ローマから息子たちが来るのを待って、顔を見たらすぐに出発する。高速A3でヴィエトリまで行き、海岸線をアマルフィ方向へ戻る。


マィヨーリの同系列ホテルでチェックイン、そこに車を預けて、ミノーリのB&Bまで送迎の車で送ってもらう。海に面した古い建物はエレベーターなどなく80段の階段を昇らなければならなかった。広い部屋にはダブルベッドと両サイドの壁際にシングルが2台、フランス窓のバルコニーからはビーチと海が見渡せる。特徴的だったのはレモン色のマヨルカ焼きのタイルの床。ベランダの丸テーブルも鮮やかなブルーが映える。





さっそく友だちお勧めの「サル・デ・リーゾ」というレストランへ夕食に出かける。このお店はもっぱらスイーツが有名、ケーキショップのカフェテラスはお隣に構えている。

メニューは魚介の温サラダ、魚介のグリル、甘えびのカルパッチョ、そして、レモンのスフレとミルフィーユのケーキ。カルパッチョはハインツ・ベックの一品を思い起こさせ(奇遇にもちょうどこの日ローマのハインツ・ベックのお店「ラ・ぺルゴラ」がリニューアル・オープンしていた!)、IGPのレモンのスフレは表面がかりっと焼きあがり中は熱々しっとりという絶妙なバランス、さすがにお菓子の名店。

翌朝は「サル・デ・リーソ」のケーキショップで朝食を済ませ(カプチーノとブリオッシュとエスプレッソ←朝は2杯はいただく)フェリーでアマルフィに行ってみることにした。

アマルフィ海岸は陸路より海路を利用するのが便利、サレルノからポジターノまで海岸線に点在する港町をつないでフェリーが運航している。アマルフィ~ミノーリはほんの10分、沖からの眺めは、ああ、絶景かな~😍


アマルフィは今回で二度目、前回は夫の同僚の結婚式(ラヴェッロ)の帰り道に立ち寄ったのだが、ドゥォーモ広場の陶器店で買ったハンドペイントのお皿を家に着いたと同時に割ってしまうという苦い思い出がある。なぜか手からするりと滑り落ちてしまったのだ。

今回はハンドペイントのエスプレッソ・カップと母のお土産に手編みのモチーフのバッグを買う。

そういえば、いたるところにマルタ十字があったが、これはもとはというと海洋公国アマルフィの象徴。というのも、マルタ騎士団の名で知られる聖ヨハネ騎士団はアマルフィの商人がエルサレムの聖ヨハネ修道院跡地に病院を設立(巡礼者のための施設や医療活動)したのが始まり。アマルフィ、凄い!

レモン・シャーベットでひと息ついてから、13時のフェリーに間に合うようにラ・ガレアという店でお昼をいただく。チェターラのアンチョビのスパゲッティ、これがまた最高に美味しくて大正解だった。





幸い、午後にはからっとした爽やかな夏空が広がってくれた。

教会の式は一時間遅れで始まり、新郎新婦がそれぞれ母親と父親に付き添われてバージンロードに姿を現す。ときどき停電、アラームが鳴るというハプニングが起こったものの、神父さまは微塵も動ずることなく式は粛々と執り行われた。









披露宴は隣町のマィヨーリ、断崖絶壁の上にあるホテルの8階、エレベーターを降りるとガラス張りの向こうは一面海が広がり、クルーズ船に乗っているかのような景観。

新郎新婦がモーターボートで接近して海からご挨拶、ドローンが現れたり、打ち上げ花火があったり、盛りだくさん。アペリティフと音楽、心地よい海風、絶景を満喫しながらうとうと・・。









着席は8時、夕食をいただきながら大音量の祝宴は深夜まで続き、ケーキカットは満月をバックに打ち上げ花火とともにという憎い演出・・。ロケーションもさることながら、好奇心旺盛な甥っ子らしい楽しいアイデア満載の結婚式でした!


翌朝、朝食後早々にヴィエトリから高速で一路山の家へ。母も息子たちと恙なくお留守番できたようでひと安心。







今回の経験から、アマルフィ海岸は日帰りでもOK、フェリーを駆使すれば十分に楽しめることがわかったので、ちょくちょく遊びに行こうと思う。

とりあえずの目標は「Sentiero degli Dei」というトレッキングコース。山頂から絶景を眺めながら、文字通り天国にいるかのような神さまの道を歩く。楽しみ!







2024年6月9日

プラハ『音楽とビールの旅』③

 

プラハ3日目、湿布薬と痛み止めが効いてきたのかまずまずの出だし。

ホテル近くの国会議事堂のような国立博物館へと繰り出すことにした。ここは、古都プラハへ入るとき通らなければならなかった門があったところ。







きっとウィーンの博物館のようだろうと想像していたけれど、あのハプスベルク家によって収集された地球上のありとあらゆるすべてのもの、数量ばかりが誇示された展示とは違って、次世代へと引き継がれるべく丁寧に記録・説明された見事な博物館だった。千年を誇る古都への人々の愛がうかがえるというもの。









博物館を満喫した後は再びママ友お勧めの心地よいレストランでランチをいただき、最終ラウンドは22番のトラムで対岸のもうひとつの旧市街を見学することに。ここは、大使館などが立ち並ぶおそらくプラハの一等地、隠れ家的なカフェやビアホールが多く落ち着いた雰囲気だ。












カレル橋に近づくにつれて雑踏にもまれ始める。橋のふもとのテラスでもはや水代わりの2回目の生ビールで喉を潤す。

ここからの眺めはプラハ城と大聖堂をバックにまるで中世画のように美しい。

橋を渡ってモルダウ川沿いを歩き始めるとまたもや夕立に見舞われる。プラハは天気の変化が激しくて、傘、レインコートはリュックの中に必携、晴れれば陽ざしは強く汗ばむので着たり脱いだりの繰り返しだった。

雨宿りしていたスタバを出てホテルに戻り、携帯をチャージしてから地下鉄→バスで空港へと向かう。

スプマンテでさよならの乾杯をして搭乗する。

プラハの旅は、ブダペストのほんの2週間後だけあって、いろんな点で比較することがよくあった。地形的にはどちらも南北に川が流れ、川を挟んで両岸に町が発展している。旧市街はどちらも川の東側にあり、小高い丘の西側に城塞と大聖堂がある。1,000年の歴史を誇る世界遺産の古都プラハに比べるとブダペストは見るものは少ないけれど、それなりに興味深いものもあり食事も美味しい。今後の観光化が楽しみかも知れない。

プラハのママ友とはマルケ州の小さな町で子育て時代を一緒に過ごした。幼い子供を二人抱えてイタリアに移ったばかりのわたしにとって、彼女の存在は大きかったと思う。なぜか、小さな小さな町なのに外国人のママ友は多く(デンマーク、スコットランド、アメリカ、チェコ、フランス・・)日本人のわたしも彼女たちのおかげですーっと受け入れられ、百歩も二百歩も先を行く進んだ考え方の彼女たちに支えられ、励まされ、なんとかやって来られたのではないか。

それなのに、20年ものあいだ一度も連絡できなかったとは・・。メッセージのやり取りで再会できたことは大きな一歩、彼女の故郷プラハを訪れたことも大きな一歩、今度こそゆっくり会って話をして、20年の空白を埋めようと思う。

 

2024年6月8日

プラハ『音楽とビールの旅』②

 


プラハ2日目はブダペストと同じく対岸のプラハ城と大聖堂を見学する予定だった。

ところが、朝から股関節が痛み歩くのがしんどい。そんなこともあろうかと持ってきた痛み止めを飲んでしずしずと歩いてトラムで対岸のお城に向かうが、そのあいだにも痛みは増していく。

「聖ヴィート大聖堂とお城は絶対に制覇せねば!」

トラムから降りてまたしてもオ~と歓声!大聖堂の堂々たる姿に圧倒される。とにかくデカイ!ミラノの大聖堂よりも大きく見えるのは黒くてごっつい造りのせいか、とにかく見学。

早々たる数のステンドグラス、その美しさには目を見張る。ミューシャのステンドグラスもあったが、さすがに多少雰囲気が違っていて、色もデザインもモダンな感じ。ミューシャといえば『スラブ叙事詩』が有名、プラハでもう一度拝みたいと思っていたのだが(2017年六本木の新国立美術館で開かれたミューシャ展で鑑賞した)現在はモラヴィア地方にあるのだとか。2026年にはプラハに移転設置されるらしいのでそのときまたね。




大聖堂とお城敷地内の数か所を見学し、腰を庇いながらしずしずと下山、カレル橋の手前の橋を渡って旧市街へ向かう。渡ったところにあるお土産屋でTシャツなど買っていると腰が・・・。いよいよか。というわけでその下にある地下鉄A線でホテルに帰投し薬局で買ったヴォルタレンの湿布薬を二枚貼りつける。

お昼には友人が教えてくれたホテル近くの絶品レストランThe Garden’sへ、しずしずと。イタリア国外ではほとんど選択しないパスタだけれど、手打ちのタリアテッレがいかにも美味しそうだったので、わたしはマルセイエーズ風、息子は牛肉とトリュフソースでいただくことに。このレストランはナチュラル志向で、インテリアから食器、お料理、なにもかもが拘りのお店。友人らしいなあと思った。





しずしずとレストランを出てホテルで再び休憩。プラハにせっかく来ているのに部屋でいつまでも休んでいるのはもったいない(←貧乏性)、しずしずと夜のジャズのある街中へ繰り出した。夕飯はジャズが終わったころ、友人お勧めのレストランに予約済だったが、テーブルにいられる時間は1時間、それはちょっと厳しいということでキャンセルし、別のお店を予約する。と、そこで夕立、目の前には新市役所のカフェがあり逃げ込む。ゆったりとミントティーをいただく。つい手が出そうなケーキは我慢する。

天文時計台広場のあたりで時間を潰したりカレル橋を渡ったり、19時のはずのジャズクラブに向かうと開演21時とある。演目もわたしが予約したものとは違っていて、「あれ?なんか変だぞ…」と思いつつも、腰痛のせいか頭が回らず、20時に会場だというオーナーさんを信じて再び広場へ。

天文時計は毎時12使徒のカラクリ人形が出てくる。初ビールは小ジョッキでカラクリ人形をつまみに。生ビールは泡がギュッと固くて軽くてやっぱり美味しかった!

さて、やっとのことでジャズクラブに赴き、オンラインチケットを提示する。

「ここじゃないよ」

「ええええええ?噓でしょ~?」

そう言われてもまだ信じられない、というか頭がまったく働かないわたし。予約したのが前過ぎて記憶からすっかり抜け落ちている。そういえば、二つあったうちのよさげな方を選んだ。しかも、19時なら夕食に間に合うからと早めに、しかも、ホテルに近いところ、しかも、しかも・・・時すでに遅し、20時が過ぎ、コンサートはもう始まっている。

そこからは歩いて9分、そう、あのカフェ・ルーブルのお隣、そういえばあのときカフェ・ルーブルに入るとき、「あら、こんなところにジャズ・クラブが・・」とふと思ったのだった。が、それ以上は考えなかった。

息子はもう諦めようと言ったけれど、

「大丈夫、任せなさい、わたしがなんとかする」と歩き出す。

ぎっくり腰はもう治っていたのか?Reduta Jazz Clubの地下のチケット・ボックスでお兄さんに説明する。イタリアからはるばる来た、時間を間違えた(本当は場所)、などなど泣きついてみると、優しそうなお兄さんが「大丈夫、9時のに入れてあげるから」

ジャズ関係者は心が広いのです。そして、入場してみてびっくりぽん、ここは大御所が演奏に来ていて、来客の面々もアメリカ大統領だったり、映画俳優だったり、凄すぎて腰を抜かしそうになった(すでに腰痛めてる💦)。会場は満席、立ち見のお客さんもいた。演目はフランク・シナトラへのオマージュ、トリオと歌手の魅力的な演奏でした!プラハ、ありがとう!

もうひとつ予約したレストランももちろんキャンセルしてしまったし、演奏終了の11時過ぎではもうどこも開いていない。ジャズ・クラブの前のブーランジェリー・バゲテリアでサンドイッチをテイクアウトしてホテルで夕飯、こういうのもなかなか楽しい。

プラハ『音楽とビールの旅』①

 


ブダペストから帰って2週間後、今度はプラハにも行ってしまうという慌ただしさ。いくら近いとはいえブダペストもプラハも初めての土地だし言葉もわからない東欧の国。緊張は否めない。念には念を入れて早めに手配をし、最高の週末旅行に仕上がったブダペスト。これならプラハもきっと上手くいくだろうと思っていた。

プラハはフライトの手配で初っ端から失敗したものの(同じ予約を重複してしまうという凡ミス)、小さな町だし、観光スポットはチェックしたし、クラシックとジャズのコンサートも予約済だし、これなら大丈夫!と思っていた。

プラハにはイタリアはシローロで知り合ったママ友が住んでいる(はず)。すっかりご無沙汰していたが20年ぶりに思い切って連絡してみた。今回は会うことはかなわなかったけれどジモティお勧めのレストランを紹介してもらった。「なにかあったらすぐに連絡してね、旅行中あなたたちのヘルプデスクになってあげる」という嬉しい一言、これなら鬼に金棒だ、と思っていた。

プラハの空港からのルートは59番バスと地下鉄A(緑色)で、Mustek駅からホテルまでは徒歩2分。チケットはすべてタップ&ゴー、ただ、プラハは30分、90分と、時間制限の切符で、そのあいだならいくらでも乗り換えられる仕組みになっている。半額の割引もちゃんと設定してあるので選択して購入する。しっかり調査済み、完璧な出だし、と思っていた。

Mustek駅から地上に上ると思わずわお~と歓声を上げてしまった。遊歩道のような広場の両脇には前世紀初頭と思われる建物がずらーっと立ち並び、遥か前方正面には威風堂々と国会議事堂のような建物が聳えている。ホテルはこの通りに面していた。繁華街には違いないけれどとにかく歴史を感じる。

チェックインをするとすぐに部屋がもらえた。荷物を置いてまずは両替、予定通りカフェ・ルーブルで昼食。百年ほどの歴史のあるカフェで建物もそのまま、中は広々として、ギャルソンが忙しなく動いている。気取った雰囲気はなく観光客よりジモティの方が多そうで賑やかだった。歩いていても、こんなカフェがいくつもあるのには驚く。

続いて息子が子供の頃から熱中していたレゴの博物館を見学。いわゆる歴代商品の展示だけれど、昔を思い出して懐かしかった。息子はそのうち市販の箱入りセットでは物足りなくなり、パーツを個々に注文して作っていたけれど、やがてレゴを卒業、コンピューター作りに移っていった。

ホテルでひと休みしてから早めに20時から始まるミラー・チャペルの室内楽に出かける。旧市街方向へ歩き出して、またもや歓声、とにかく街並みが古くてパリのよう。スメタナ・ホールのある新市役所ですら14世紀という古さだが現役でバリバリに使用されている。1階は右手がレストランのホール、左手はカフェのホール、一度はだれでも入ってみたくなるような。


















有名な天文時計台広場に出ると、怒涛のような人、人、人、ここは観光客ラッシュ。ビアホールのテラスがズラリと並び、ここでは水より安いといわれるビールを楽しむ人たちでいっぱい。







室内楽の演奏はミラー・チャペルという教会で、モルダウ川沿いのクレメンティウムというイエズス会が特に活用していた施設の一角にある。演奏はRoyal Orchestraのメンバーによるものとあったが、演目の「四季」は圧巻、女性ヴァイオリ二ストの演奏には鳥肌が立った。スメタナ・ホールでも同じ時間に同じ「四季」のコンサートがあったが、ミラー・チャペルで良かったと思った。教会の音響は小ぢんまりしているからこそ最強なのだ。(次回は会えなかった友だちとドボルザーク・ホールを狙っている)

友人お勧めのレストランV Zatisiはそこから歩いて数分、21時過ぎに予約をしておいた。

オーナーのトムさんが注文を取りに来たときの言葉が、

How can we make you happy

なんかいいなあ。

美味しいワインと絶品のお料理、プラハの旧市街の夜は静寂に包まれていた。