今回の引越し荷物には、実家の家じまいでどうしても捨てられなかったもの、同居することになった母の持ちもの、さらに、東京で使っていた家具もあり、手狭になったリビングの模様替えにさんざん頭を捻った結果、とうとうピアノを処分することにした。
ブエノス・アイレス時代に購入したミニョンは、ウィーン製のマホガニーで鍵盤は象牙、大好きだったけれど、わたしは指に関節炎を発症し、弾くひとがいなくなってしまった。
引き取り手が決まって、いよいよ搬出。ここでは、エレベーター(そもそも大き過ぎて入らない)や窓からクレーンで下ろすのではなく、コンパクトな自動運搬機に載せて階段を下りていく画期的な方法。ちなみに、ブエノス・アイレスでは9階から下まで担いで降ろしていた。ようやくリビングが広くなったところで、家族5人の隔離生活が始まった。
ロックダウンになって生活が不便になったとはいえ、高齢の母と持病のある夫が安心して生活できることはありがたかった。息子たちの大学の講義はオンラインになり、仕事もリモートになった。邪魔もの扱いしていたエリッティカ(サイクリング・マシーン)は運動不足解消に役立ち、大反対だった巨大スクリーンTVも、いつも噛りついていたのは結局わたし。
すべての移住手続きが終わってほっとしたところに始まったロックダウン。外出で気分転換もできないような状態、ますます家族との時間が濃密になってくると、母がまだここの生活に溶け込めていないことがよくわかった。
わたしたちとは長いあいだ離れて暮らしていたし言葉も習慣も違う。娘もずっと会わないうちに変貌を遂げ、もはや日本語の話せる外国人。カルチャー・ショックと同時にジェネレーション・ギャップもある。本当にこの家族とやっていけるのだろうか、そう繰り返す日々だったに違いない。母は、なにかにつけ、「こんなところに入ることになって・・」と言った。あたかもここが施設であるかのように。あまりの急激な環境の変化とコロナ騒ぎ、ロックダウン、立て続けの出来事に頭のなかが混乱して整理しようにもできないのかも知れない。
認知症が進んでいるのだろうか?家族に話すと、わたしたちが介護スタッフではなく家族だということをわかってもらうために、名前で呼び合ったり、写真で説明したり、いろいろな方法を試みることになった。
ところがある日、「あなたがだれかわからない」と言い出し、とうとう来るべきときが来たのだと思った。
「でも、この写真にはお爺ちゃんとわたしと、それに孫たちも写っている・・・どういうことなのかわからない」母は、辻褄を合わせようと必死、混乱がピークに達しているようだった。
「施設設定」を早く取り消して家族の一員だということをきちんとインプットしなければ、どんどんこじれていく。
「わたしはあなたの娘、死ぬまでそばにいるから安心して、大丈夫」、そのとき、母の目に涙が溢れ、「知らなかった、知らなかった」と泣き崩れた。
その翌朝、けろっとした母は、わたしがだれなのかちゃんとわかっているようで、施設という亡霊はとりあえず消えてくれたようだった。