2020年8月29日

母、86歳、イタリアへ移住する〈隔離生活〉⑥ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente! 〈Vita in quarantena〉


今回の引越し荷物には、実家の家じまいでどうしても捨てられなかったもの、同居することになった母の持ちもの、さらに、東京で使っていた家具もあり、手狭になったリビングの模様替えにさんざん頭を捻った結果、とうとうピアノを処分することにした。

ブエノス・アイレス時代に購入したミニョンは、ウィーン製のマホガニーで鍵盤は象牙、大好きだったけれど、わたしは指に関節炎を発症し、弾くひとがいなくなってしまった。

引き取り手が決まって、いよいよ搬出。ここでは、エレベーター(そもそも大き過ぎて入らない)や窓からクレーンで下ろすのではなく、コンパクトな自動運搬機に載せて階段を下りていく画期的な方法。ちなみに、ブエノス・アイレスでは9階から下まで担いで降ろしていた。ようやくリビングが広くなったところで、家族5人の隔離生活が始まった。

ロックダウンになって生活が不便になったとはいえ、高齢の母と持病のある夫が安心して生活できることはありがたかった。息子たちの大学の講義はオンラインになり、仕事もリモートになった。邪魔もの扱いしていたエリッティカ(サイクリング・マシーン)は運動不足解消に役立ち、大反対だった巨大スクリーンTVも、いつも噛りついていたのは結局わたし。

すべての移住手続きが終わってほっとしたところに始まったロックダウン。外出で気分転換もできないような状態、ますます家族との時間が濃密になってくると、母がまだここの生活に溶け込めていないことがよくわかった。

わたしたちとは長いあいだ離れて暮らしていたし言葉も習慣も違う。娘もずっと会わないうちに変貌を遂げ、もはや日本語の話せる外国人。カルチャー・ショックと同時にジェネレーション・ギャップもある。本当にこの家族とやっていけるのだろうか、そう繰り返す日々だったに違いない。母は、なにかにつけ、「こんなところに入ることになって・・」と言った。あたかもここが施設であるかのように。あまりの急激な環境の変化とコロナ騒ぎ、ロックダウン、立て続けの出来事に頭のなかが混乱して整理しようにもできないのかも知れない。

認知症が進んでいるのだろうか?家族に話すと、わたしたちが介護スタッフではなく家族だということをわかってもらうために、名前で呼び合ったり、写真で説明したり、いろいろな方法を試みることになった。

ところがある日、「あなたがだれかわからない」と言い出し、とうとう来るべきときが来たのだと思った。

「でも、この写真にはお爺ちゃんとわたしと、それに孫たちも写っている・・・どういうことなのかわからない」母は、辻褄を合わせようと必死、混乱がピークに達しているようだった。

「施設設定」を早く取り消して家族の一員だということをきちんとインプットしなければ、どんどんこじれていく。

「わたしはあなたの娘、死ぬまでそばにいるから安心して、大丈夫」、そのとき、母の目に涙が溢れ、「知らなかった、知らなかった」と泣き崩れた。

その翌朝、けろっとした母は、わたしがだれなのかちゃんとわかっているようで、施設という亡霊はとりあえず消えてくれたようだった。




2020年8月28日

母、86歳、イタリアへ移住する ⑤ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente!

 


ここはローマ、移民は星の数ほどいる。しかも、世界各国からとなると市役所の住民登録もさぞかし大変だろうと思う。

市役所には手続きのマニュアルが置いてあり、まずはそれを読んで勉強する。市役所の業務はすべて予約制だが、住民登録はほぼ永久的に満席状態。予約サイトを毎日チェックしてキャンセル待ち。これではいつになるかわからない。

ということで、すべての書類(かなりの量)をスキャンしてオンラインで申請することにした。イタリアにはPECという登録制の電信箱があり、大切な書類を送る場合はこのメールを使用する。ただ、その容量が前世紀的に小さく、スキャンした書類は一度に送れず、何通にも分けて送信。念のために書留で郵送もする。しばらくして受領通知があり、一か月以内に警官による家庭訪問があるとのこと。登録の住所に本当に住んでいるかどうか確かめに来るというわけだ。

住民登録が終われば、母の保険証と身分証明書の申請ができる。これでホームドクターも選べるし、わたしたちと同じように生活ができる。

残すは年金の海外受給手続きのみ。これが意外と簡単で、本人名義の口座を日本の年金機構に知らせて申請する。銀行の口座開設には「フィスカル・コード(納税番号)」が必要となってくるが、これは、すべての住民が所持しており、母も例外にもれず滞在許可証取得とともに受け取った。

海外受給の申請書類を郵送して返事を待っていたちょうどそのころ、イタリア北部ではコロナの感染が広まりつつあり、生活にも制限が出始めていた。そして、とうとう封鎖。首都ローマも時間の問題だった。

ただならぬ胸騒ぎ・・年金機構に確認の電話を入れてみると、書類に不備があった(銀行の所在地が確認できないというだけの)ため返却したとのこと。しかも、悠長に普通便で!こちらは、コロナ禍で郵便が届かなくなるかも知れないのに!

再び書類を送り返すために郵便局へ行ったのは、イタリア全土がロックダウンになる前日のことだった。年に一度、誕生日の月末までに送る現況確認(住民票)も送付し、これで日伊双方の移住手続きがすべて完了した。




2020年8月27日

母、86歳、イタリアへ移住する ④ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente!



イタリアまでのフライトは12時間ほど。高齢の母に果たして堪えられるだろうか?ところが、だれよりもよく食べ、よく寝、疲れたようすもない母は、「なんだか夢を見ているみたい」と、空の旅を楽しんでいるようだった。

数日後、旅の疲れがおさまったところで、いよいよ移民局へ行くことになった。渋滞が見込まれる環状線からアクセスするため、早朝7時に車で家を出る。移民局の入口にはすでに多くの外国人が並んでいた。車椅子の高齢者ということで優先的に窓口へと案内され、1番の番号札をもらう。「書類は揃っているので、すぐに手続きさせてもらえるはず」という期待は大きく外れ、今回は提出書類の説明と予約のみ、予定日は年を越した1月半ばとのこと。母の観光ビザの期限が3ヶ月、もしその時点で不備があれば、母は強制退去させられることになる。こうしてひとつめの問題が浮上した。

そして、驚くべきは、ここに至ってはじめて提出書類が判明したということ。法律事務所や移民関連情報サイトではわかりようのないシロモノだった。日本の戸籍の原本などは一切必要なく、イタリア当局が発行するわたしの家族証明と出生証明だ。そのとき、なぜか、「出生証明には時間がかかるかも知れないので早めに入手するように」と念を押されたのが気になった。

市役所では、家族証明はすぐに発行されたが、出生証明の方は、担当窓口のパソコン画面に黄色い⚠マークが出てきてしまう。「ここでは発行できないので国籍取得の手続きをしたところに問い合わせてみて」とのこと。さっそく取り寄せた出生証明は、登記ナンバーのない、生年月日と出生地のみが記載された明らかにその場で作成した証明書、もちろん両親の名前など書かれてはいなかった。

いくら問い合わせても「これしかない」の一点張りで、跳ね返されてしまった。ここにふたつめの問題が浮上。

母子関係の証明ならば、アポスティーユ認証と領事館認定の法定翻訳つきの日本の戸籍も法的に有効なので問題ないはず、いったいわたしのイタリアでの出生証明はどこにあるのか、どうなっているのか・・。もう後には戻れない、背水の陣。

でも、ここはイタリア、やはり持つべきものは友である。その助けを借りて11月末には晴れて滞在許可証を取得することができた。

ところで、その「出生証明」、まだ終わっていなかった。

師走のクリスマスどき、スーパーの駐車場でバッグを盗まれてしまった。クリスマス前は彼らにとってもかき入れどきなのは十分わかっていたのに。2019年ずっと張りつめていた緊張がふと解れた隙をつかれたようだった。

盗まれた身分証明書の再発行手続きは市役所が行う。そこで、またもや担当窓口のパソコンに⚠マークが!身分証明書の発行にも「出生証明」が不可欠なのだった。ぜひローマの中央登記所に問い合わせてみるようにと促され、翌日さっそくカンピドリオの役所に出向いてみた。(しかしながら、盗まれた身分証明書は「出生証明」なしで発行されいたわけで、どこかで規準が変わったのか、はたまた片手落ちの発行だったのか?)

カンピドリオといえばローマ時代のマツリゴトの中心、古代遺跡の建物は市庁舎として現役で活躍している。中央登記所はその近くの古い建物のなかにあり、その構造は複雑で迷路のよう。あてずっぽうに部屋をノックしてみると、まあまあどうぞと通され、ゆっくりと話しを聞いてくれ、丁寧にアドバイスされるとともに訪ねるべき責任者の名前も教えてくれた。

斯くして、その責任者のオフィスに赴き事情を説明すると、「すぐに調べましょう」と快く担当者のところに案内された。

いかにも真面目でできるひとっぽいその担当者によれば、「出生証明というのはイタリア国内のどこの役所でも検索できるので、ローマの市役所で見つからないなら存在していない、つまり、国籍取得のときに日本の戸籍から写されていない可能性が高い」とのこと。

「ローマに転入したときに転記漏れがあったのではないか?」と尋ねると、「そんなこと、このローマで起こりうるわけがない!」と、ほぼ憤りの形相。

だとしたら、1996年から2020年の今日に至るまで、ざっと24年に渡って出生証明は存在しなかったことになる。これは、知らぬ存ぜぬでは済まされない登録役場の業務ミスであり、怠慢と言われても仕方がない。さっそく役場に電話で問い合わせることになった。案の定、悪い予感はあたってしまった。

こんなこともあろうかと、婚姻届けから国籍取得、有効な日本の戸籍の原本まで、必要と思われる書類すべてを持参していたので、その場で申請手続きとあいなった。「24年前のイタリア(しかも地方の役場)ではありうることだった」と遺憾の念を露わにした責任者。

その責任者のフェリーチェ氏(幸福という意味)から登記完了の電話があったのは、その一週間後、かなり責任を感じておられたようだ。

それにしても、このカンピドリオの中央登記所にはどこか異次元っぽい空気が漂っていた。そのむかし、ローマは、外国人に市民権を与えて大きくなっていったわけだが、古代の「移民歓迎の刻印」はいまも消えていないのかも知れない。申請窓口では、「フェリーチェ氏は登記の仕事に喜びを感じているんだよ」と、冗談まじりの言葉が囁かれた。

こうして、身分証明書も再発行されて、めでたしめでたし。もし盗難に遭っていなかったら未解決のままだったに違いない。まさに「災い転じて福となす」。泥棒に対する怒りも感謝の念に変わりつつあった。




2020年8月26日

母、86歳、イタリアへ移住する ③ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente!

 



出国までのひと月を過ごした東京は、長いあいだ故郷を出ていない母にとっては異国のようだったに違いない。母のために「東京見物」をする傍ら、わたしは、すべての手続きに手落ちがないか、入念にチェックをしていった。

■戸籍の翻訳とアポスティーユ認証 イタリア語の翻訳は無理だと思っていたけれど、なんとか自分でできた。外務省に行ってアポスティーユをもらう。

■海外旅行保険 高齢者の場合、扱っているところはほとんどない。必要な薬を少なくとも三ヶ月分はストックしておく。インフルエンザの予防接種も受けておくのが望ましい。

■年金 海外受給の方法を地元の年金機構事務所で予め問い合わせる。

■海外送金 親子関係を証明する戸籍や身分証明書まで持参しての手続き審査、ちまたで高齢者を狙う詐欺まがいの事件が頻発していることがうかがわれた。

■郵便物 いちばん気がかりだったことだが、夫の事務所で管理してもらえることになる。

■転出届 出国の二週間前に市役所に郵送する。

■携帯電話の解約 最後の最後に。

■来年の確定申告 知り合いの税理士に一任する。

■搭乗便 車椅子利用のむねを連絡(これがローマ到着時にイミグレーションで大いに役立つことになる)。

事務手続きでやり残したことは、これでもうないはず。

母の衣類は動きやすく着心地のよいものを揃え、履きやすい靴を買う。着道楽の母には、わたしの意見はすべて気に入らないようだったけれど、イタリアで落ち着くまではそんなことは言っていられない。当分は合宿モードです!そして、必ず恋しくなる和菓子や和の食材も忘れずに。

いざ、出国!


2020年8月25日

母、86歳、イタリアへ移住する ② Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente!

 


移住までの母の住居となった介護施設は新築の高層ビルで、ホテルのロビーのような立派な大理石張りの受付ホールには豪華な胡蝶蘭が飾られ、水槽には優雅に熱帯魚が泳いでいる。明るいイメージでスタッフも笑顔でとても親切だ。この環境なら母も気に入ってくれるに違いない。この施設を推薦してくれたのは、統括センターだった。遠方にいるわたしにとって、駅に直結している立地は最適だろうと。

搬入した荷物を箪笥や戸棚にきちんと整理して翌日また訪れると、荷物はもと通りに片づけられて「いつでもすぐにここを出られるようにしておくの」と母。

「ここがこれから家になるのよ」と、もう一度整理して立ち去ると、また同じように片づけてしまう。いったいどういうつもり?また家に戻れると思っているのだろうか?認知症が進んでいるのかも知れない、と心配だった。

新しい生活のなか、たまに訪問客があると母はとても嬉しそうだった。食事も楽しみのひとつだっただろうし、看護婦さんやスタッフとのやり取りだけでも新しい生活は母にとって刺激的だったに違いない。もしひとりになって介護が必要になったら、わたしでさえ入りたいと思うような場所だった。

ただひとつ、契約には保証人とは別に身元引受人も必要で、海外にいるとそれがネックとなる。連絡は電話のみで、メールでのやり取りは一切できなかった。従弟妹たちにすべてを任せていくには少々重荷のような気がした。

9月、イタリア移住のことを話すときが来た。やはり日本を離れるのは抵抗があるようで、できれば住み慣れた町にいたいのだと言う。置かれている現実がまだ把握できず、また以前のような生活に戻れると信じているかのようだった。

こころを鬼にして強硬策に出るしかないのだろうか?母の生まれ故郷で兄弟家族に送別会の席を設けてもらい、そこでじんわりと説得することに。もはや移住以外の選択肢はなく、これは不可抗力なのだ。

出国のひと月前、介護施設を引きはらい、母を車椅子に乗せていざ東京へ。

86歳まで暮らした町との別れだった。

2020年8月24日

母、86歳、イタリアへ移住する ① Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente!




2019年2月、兄が突然亡くなった。そして、兄と同居していた母がひとりぼっちになった。ローマにいたわたしは急遽帰国、それからというもの、お葬式、遺品整理、相続手続き、ぎっくり腰になった母の入院、介護施設探しと転居、家の処分、墓じまい・・・山積みの日々が続いた。

離れて暮らしていると、母はいつまでも以前のままのような気がして、ヘルパーさんに来てもらえばひとり暮らしも大丈夫だろうと思っていたら甘い甘い、なにからなにまで兄がお世話をしていたので、食事の準備からお金の管理まで、いつのまにかなにもできない母になっていた。 

幸い、お風呂や洗面、着替えなどの身の回りはなんとかなったけれど、記憶はときどき飛ぶし、足元が覚束ないこともある、一軒家でひとりで暮らすのは危険、etc... 一緒にいてはじめてわかることがたくさんあった。これだとどこかの施設に入ってもらうしかない・・・。

市の統括センターで介護保険手続きをお願いし、とりあえずのショートスティ先やその後の介護施設などだいたいの目処がついたところで、4月にはいったんローマに戻り、家の売却や相続手続きなどはメールでやり取りを続け、5月末には不動産屋に鍵を渡すというスピード展開。

友だちと計画していた6月後半からの還暦祝いクルーズ旅行もキャンセルすることなく無事に出発することができた。

11月には東京任務を終えて帰国が決まっていたわたしたちは、母をそのまま介護施設に残していくつもりだった。年に一度くらいようす見に帰ればいいだろうと・・・。

それが、ある日、一大転換が訪れる。

「実家の家じまい」をメンタルからフィジカルまで終始一貫支えてくれた高校のクラスメート(彼女とのご縁は小説が書けるほど!)が、「お母さんもイタリアに連れて行くしかないでしょう!」ときっぱり。夫に相談すると、すぐに領事館に問い合わせよう、と。

目から鱗だった。母をイタリアへ連れて行こうなどと1ミリも考えていなかったのはわたしだけだったのかも知れない。親戚に打ち明けると「それがいちばん!」という返事。

母の面倒を見てもらう親戚がなかったわけではないが、親切に後見人を名乗り出てくれた従兄も高齢、母の在所もそれぞれが高齢者を抱えている、よくよく考えてみれば、実の娘がいるのにそれで良いのか?いろいろな思いが巡った。

とりあえず、母のイタリア移住については、あくまで選択肢のひとつとして、出国までの母のようすを見ながら準備を進めることになった。

移民手続きの必要書類については、イタリア領事館もローマの移民局に問い合わせるようにとのこと。けれども、遠路はるばるテオフィロ・パティーニの移民局までいきなり行って情報がもらえるのかどうか、それも不明だった。最寄りの警察署の移民窓口に行ってみたが、正確な情報はなく、まったく埒があかない。

やはり、移民局に直接出向いて聞くしかないのかなあ。なんとかじぶんで調べることはできないものか?

移民に関する条令や移民専門法律事務所のサイトを徹底的に調べていたら、ようやく、イタリア人の家族を外国から呼び寄せる場合の手続きは比較的簡単だということがわかってきた。 

日本から準備していく書類は、母とわたしの関係性がわかるものということで外務省のアポスティーユ証明とイタリア語法定翻訳つきの戸籍謄本、医師の健康診断書、有効なパスポートくらい。とりあえず観光ビザで入国して移民局へ出頭する段取りでいけそうだった。

出国の11月まで、母には安全な施設にいてもらうことにして、移住についても、追々説明するつもりだった。めまぐるしい生活を強いられてきた母の心情を慮れば、すぐに言い出せることではなかった。