2017年9月14日

コート・ダジュール ⑤ マチスとシャガール Les Vacances sur la Côte d'Azur ⑤ Matisse et Chagall   






最終日はシミエの丘にあるマチス美術館とシャガール美術館を目指しました。ギャラリー・ラファイエットの裏から出ている15番バスで先ずはシミエの丘へ。フランシスコ修道会の隣の庭からは港とべ・デ・ザンジュ(天使の湾)が見下ろせます。庭造りがどこかイタリアとは違って、印象派の影響なのかなあ、いや、こういう庭だから印象派の絵があんな風になるんだね、きっと。


マチスの美術館は、近代建築が増設されてびっくりするほど立派になっていました。以前は赤い家だけだった。30年も経てば当たり前か・・。ただ、スペースの割にはマチスの作品点数が少なくて残念。




とりあえず、お目当ての『Fenêtre à Tahiti』と『Nature morte aux grenades』を観ることができて良かったです。














シミエのローマ遺跡はあえて見学しませんでした。ローマでいつも観てるし(笑)よって考古学博物館もパス。15番のバスで丘を下ってシャガール美術館へ。

30年前、学生時代、アパルトマンからも頑張れば歩けるところにあったので、よく足を運びました。ここにあるMessages BibliquesとLe Cantique des Cantiquesは、ずっと瞼に焼きついていました。とにかく、シャガールは大好きです。ちなみに、フランスでは生きているあいだに国立美術館が建てられたのはシャガールだけなのだとか。
















マチスとシャガールを観て大満足で丘を下り、最後のお昼は、またあのラ・メレンダに行くことに。運よく二席空いていました。Fiori di zucca(ズッキーニの花)の天ぷらとリコッタとルーコラのサラダ、ドーブ(肉の煮込み)、イチジクのコンポート、どれもとても美味しくいただきました。




今回のニースは記憶をたどるような旅でした。当時、紺碧の海を見ながら、いつかまたここに戻って来たいと強く思ったのに、あれから30年が過ぎてしまいました。お世話になった方々がいまでもお元気でいらっしゃることを祈りつつ。



2017年9月11日

コート・ダジュール ④ サン・ポール・ド・ヴァンス Les Vacances sur la Côte d'Azur ④ Saint Paul de Vence   






サン・ポール・ド・ヴァンスはニースからバスで北西に一時間ほど行った内陸の丘の上にあります。バスはプロムナード・デ・ザングレ通る400番、バス停が多いので時間がかかります。立派な城壁に囲まれた村は歴史を感じさせます。遡ること古代ローマ時代。20世紀になって芸術家たちがここに移り住むようになり、村のレストラン、コロンブ・ドールでの食事代に絵を置いていったという話はあまりにも有名。マチスやシャガール、ピカソなど、その価値は計り知れず、レストランは美術館のようになってしまったのだそう。30年前に訪れたときは店の前を通ることができて、鉄格子越しに中をのぞいたのを覚えています。




城壁の中は、細部に心配りがゆきとどいていて、村がまるでひとつのアートのようでした。ゆったりと静かな時間が流れ、遠くには海も見える。芸術家には絶好の場所です。







サン・ポールの墓地にはシャガールのお墓があります。 二番目の奥さんヴァヴァも一緒に眠っています。花ではなく石が置かれているのはユダヤ人のお墓だからだそう。シャガールはサン・ポール・ド・ヴァンスに20年も住んでいたそうです。


立ち寄ったお店では手作りのアクセサリーとブラウスをお土産に。さっそく着替えて南仏の気分です。南アフリカ出身の奥さんとついお喋りが弾み、なんでも以前はカプリにお店を出していたのだとか。地中海をベースにこういうお店を展開って、素敵!
 
村から1キロくらい上ったところにフォンダシオン・マーグという私財団の美術館があります。30年前にサン・ポール・ド・ヴァンスに来たのは、この美術館で開かれた展示会のヴェルニサージュに招待されたからでした。といっても、わたしではなく、マダム・ニューマンというお友だち(年の半分をニース、半分をニューヨークでという優雅な老後をお過ごしだった)にお誘いいただいて。あのとき、とても印象的だったのは、庭にあったジャコメッティやミロの迷路。雨曝しでもいいのかしらんと心配したものでした。

芸術とのゆったりした時間を満喫し、お腹がが空いたところで村はずれのビストロへ。地元のひとびとに愛されるお店といった感じで、ボリューム満点、ポテトと鴨のオーブン焼きとタラと野菜のアイオリ・ソースは絶品でした。




夜は旧市街へ。朝市場が立っていたところは夜にはレストランのテラス席に変わります。その数ざっと数十軒、魚介のお店がほとんどです。夜のニースは町中が台所に変貌します。旧市街はじめ町の小さな路地にもレストランがたくさん。










こんなに新鮮な魚介がこの値段で!と驚くほどのコスパでした。





コート・ダジュール ③ 鷹巣村エーズとモナコ Les Vacances sur la Côte d'Azur ③ Eze village et Monaco   





二日目は鷹巣村エーズに出かけました。ヴォーバンという町外れのバス停から82番のバスが出ています。山を上りながら海沿いを行くのでさぞ風光明媚かと思いきや、1時間に一本しかないのですぐにバスは観光客で満員、景色を眺めるどころではありません。30~40分で到着です。




最初の計画では歩いて山を400メートルほど下ってエーズの海岸から電車でモナコに行くはずだったのですが、山道は閉鎖されていて降りられず。この道は哲学者ニーチェの道と呼ばれていて、彼はここを歩きながら『ツァラトゥストラはかく語りき』の構想を練ったといわれています。確かインスピレーションを受けたのはシリス・マリアですが、ニーチェはここにも来ていたんですね。








エーズの村は30年前とは雰囲気が一変、すっかり観光地化していました。なんだかちょっと残念。当時は有名なホテルがあっただけでとても静かで美しい村でした。





断崖絶壁からの眺めを楽しむためにシェーブル・ドールのカフェでアぺリティフを。カップ・フェラやヴィユフランシュの半島沖にはヨットがたくさん停泊していました。


さて、ひとときの夢の世界から現実に。モナコ行のバスが来るまでフラゴナール香水工場を見学することにしました。香水はふだん使わないひとなのですが、自分への思い出にヒマラヤ杉のオードトワレをひとつ買ってみました。南仏なのにミモザやオレンジには走りません(笑)




モナコ行のバスもやはり満員でした。本数が少なすぎるのでしょうね。今回も窓からの風景は無理。カジノの広場へと歩いていると後ろからけたたましいパトカーのサイレンが聞こえ、あっというまに広場は封鎖されてしまいました。いったい何事?重鎮のお出ましか、はたまた・・・。しばらくすると黒い覆面の作業員が現れ、ようやく爆弾騒ぎだということがわかりました。カジノの前に駐車してあったベントリーの下に爆弾らしきものを発見したらしい。

結局、爆弾ではなく、無事に一件落着。やれやれ。広場から港の方に少し歩いてみましたが、足の踏み場もないくらい密集、港もごちゃごちゃ、優雅な雰囲気は微塵もありません。ニースもだけど、人口密度高過ぎます。






爆弾騒ぎの後、不注意から怪我をしてしまって・・、薬局を探して彷徨っているうちに急勾配を歩くのに疲れてしまい、結局、モナコは早々に退散しました。ニースまでは海岸沿いを走る鉄道で行こう。きっと眺めも良いはず。と期待したものの、以前のような古風な電車はもうなく、鉄チューブのような二階建ての電車は窓ガラスがすっかり曇っていて景色どころではありませんでした。涙。













夜は大好きなクスクスで締めくくりました。生まれてはじめてクスクスを食べたのは30年以上前、フランスの大学の学食。この小さい粒々はなに?アラブの食文化が浸透しているフランスならではです。




2017年9月10日

コート・ダジュール ② 懐かしの町を歩く  Les Vacances sur la Côte d'Azur ②    





到着日。ホテルに荷物を置いてお昼に出かけました。目指すはホテル・ネグレスコの二つ星レストラン、シャントクレーの元シェフのお店、ラ・メレンダ。ここは電話予約できないので直接行って空いていれば入れるという感じ。カード、携帯電話もお断り、メニューは黒板のみです。


注文したのはフォカッチャ、ラタトゥイユ、ドーブという肉の煮込み。どれも洗練されたお味でした。


















こうなるとデザートも味わってみたくなります。
ニース独特の野菜のタルト、タルト・デ・ブレットを。


お店は狭くて椅子も固くて座り心地が悪いのですが、そこじゃない、っていうか。そんなことはどうでもいいというひとたちが料理だけを楽しむ場所なのでした。


美味しいものをいただいた後は、海沿いを散歩しながら港まで。午後の日差しは強烈です。30年前と印象が変わったのは中心の広場に柵ができていたこと。町はもっと開放的だったような気がします。港もなにやらごちゃごちゃたくさん建造物ができて手狭になった感じ。

海岸沿いのプロムナード・デ・ザングレには自転車用の通路ができていて、歩道も以前より広くなったかも。


ホテルに戻ってひと休み。夕食に出かける前に以前住んでいたアパルトマンに行ってみました。ネグレスコの脇のベルリオーズ通りを北に10分ほど歩いていくと、その建物は変わらぬ姿でそこにありました。


夜はニースの歩行者天国にあるレストランでサラダ・ニソワーズを。観光客でいっぱいのニースは夜もとても賑やかでした。











コート・ダジュール ① ホテル・ネグレスコ  Les Vacances sur la Côte d'Azur ① Hotel Negresco






恒例の9月上旬のバカンス、今年はニースを選びました。ちなみに、一昨年は南イタリアのマテーラ、去年はウィーン。ニースは、本当は去年行くはずでしたが、7月14日にテロがあったので見送りました。

かつてニース大学に通っていたころ、プロムナード・デ・ザングレの超高級ホテル、ホテル・ネグレスコで アルバイトをしたことがあります。英語もフランス語も話せない日本人客が急増して困っていたホテルが大学に求人に来たのです。そして、その白羽の矢はわたしにあたりました。そこでは、次から次にエピソードが・・・。以下、過去日記「ホテル・ネグレスコ」より。

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フランス留学時代、ニースの高級ホテル、ネグレスコでアルバイトをしたことがある。「最近日本人観光客が多くなったが英語もフランス語も話せなくて困っている」と大学に求人があり、その白羽の矢があたってしまった。まずは労働許可証の申請。ホテル側が添えた採用理由には「数ヶ国語が自由に操れる特殊な人材」とある。フランス語と英語が少しと日本語しか話せないのに良いのか?ここで否定しなかった自分もすごい。

週6日の8時間労働のフロント業務だったけれど、チップがもらえたのが学生の身分としては嬉しかった。わたしはせいぜい小銭、でも、レセプションのボスはお札でポケットがパンパンに膨らんでいた。

そのボスというのはレセプションだけでも3人いて、早番遅番、曜日などで常に入れ替わっていた。同じカウンターには、パトリックというゲイの男の子とオランダ人のスタジスト、そしてもの静かな会計の女性がひとりいた。親切に仕事を教えてくれたのはパトリック。ピコピコ指を動かせながら話すのが可愛い。

ボスのひとりムッシュ・フェラーリはイタリア系。とても陽気で優しい。もうひとりのムッシュ・メランジュは、わたしを裏部屋に追いやって一日中ファイルの整理をさせ、フロントを独り占めにしていた。そのため、ムッシュ・メランジュと仕事をした日は晩御飯代が出なかった。

副支配人のムッシュ・マローは007に出てきそうなダンディな人だったけれど、ポケットの膨らみ方は目に余るものがあった。

コンシエルジュのボスは温厚でいつも周りを冗談で笑わせてくれた。ポーターさんは外国人の出稼ぎが多く、闘牛士を思わせるスペイン人のカルロス、働きもののドイツ人のリチャール、フランス人の金髪の美少年と小太りの子がいた。

仕事を始めて間もないころ、ホールにヴィトンの旅行鞄が山積みにされて驚いたことがある。ハリウッド女優のご到着だ。ニースでテレビ番組の撮影があったらしい。

しばらくすると、イランの石油王が美少女と現れた。ホテルの玄関脇には人だかり。彼の車を見物・撮影しているのだ。よくよく見るとハンドルにはダイヤモンドで石油王のイニシャルが埋め込まれている。なんでもカルチェに作らせたのだとか。それ以来、ホテルで彼らとすれ違うたびに彼らがダイヤモンドに見えてきた。

アラブの王さまが、ご夫人三人と第七王子までの息子たち、その他大勢の召使を引き連れて、ホテルのワンフロアを貸し切ったこともあった。「部屋にある骨董家具を酔った勢いで壊しちゃった」という電話が・・。マダム・オジェ(オーナー)が競落とした大切な骨董家具が・・ああ・・。

アラブといえば、北アフリカに駐在の日本人商社マンの奥さまから「豚肉の冷凍をこっそり持ち帰りたい」と相談を持ちかけられたことがあった。わたしにそんなこと言われても・・。すると、どこかでクーラーバッグを調達されたようで、冷凍豚肉をごっそりお持ち帰りになった。無事に通関できたのだろうか。

いつものようにフロントで仕事をしていると、ひとりの老人がデスクにやって来た。イタリア語訛りでなにを言っているのか解らず、「え?なんです?ゴミ箱だったら裏から回ってくださいな」と答えるわたし。それを見ていたムッシュ・フェラーリ、慌てて丁重に挨拶し、みずから貴重品ボックスを取りに行った。このホテルのスイートに毎年一ヶ月ほど滞在する顧客だった。

ロシアの日本大使館の外交官でしかも同じ大学というひとが訪れたこともあった。ロシアでは新鮮な野菜が食べられないので、わざわざニースに野菜を食べに来たと仰る。「先輩、それじゃあ、”魚介”(野菜でなく)の美味しいレストランに行きましょう!」と、自分がかねてから行きたかったレストランにお連れした。あんなにたっぷり生牡蠣を食べたのは生まれて初めて。

ある晩、ひとりの英国人男性が訪れた。カジュアルなジーンズ姿のそのひとを見て、ムッシュ・フェラーリは「満室でございます」と丁重にお断りした。「近くに安いホテルもあるから、あんな感じで言えば良いんだよ」と。で、でも、あの顔には見覚えが・・あれ、テレンス・スタンプじゃない?ムッシュ・フェラーリまずいっす。

翌日、ムッシュ・フェラーリに支配人から呼び出しがかかった。(なにを隠そう通報したのはこのわたし)その翌日から映画の撮影が始まり、報道陣や関係者がホテルに殺到した。なんの映画だったんだろう。

失敗をしたこともあった。電話でお客の問い合わせがあり、PCに名前がなかったので「お泊りではございません」と答えた。その午後、イスラエルのお姫さまが自家用ボートでホテル前にご到着。朝の電話は花屋からだと判明。どこかの王子さまからの花束だったに違いなく、夜にはフロントがいっぱいになるくらいのフラワーが届けられた。

「おらが一番」のアメリカ人を部屋に案内したときのこと。南仏の超一流ホテルとはいえ、シェラトンのようなモダンな造りではない。ロココ調ムードが売りもののこのホテル、部屋は骨董の家具と装飾でいたってコンパクト。大柄のアメリカ人ならベッドから足が30cmくらいはみ出るだろうし、天井だって低い。エアコンもガーガーうるさく、よく冷えない。これでは宿泊料金のもとがとれないという顔つきだった。こちらとしては、お引き止めする理由はない。でも、晩御飯のためのチップがかかっているからちゃんと部屋の説明だけはする。しっかりものの奥さま、お財布を出そうとするご主人にきっぱり「Don't」と。アメリカ女性は強いなあと感心した。

日本人客の中には、股引で廊下を歩かれていた方もあったが、印象に残ったのは怖いお兄さんの南仏一人旅。怖いお兄さんがどうして南仏を一人旅なのか?そんなお兄さんにも添乗員がついていた。「逃げ出したい」とその女性に泣きつかれたが、わたしにそんなこと言われても・・。ホテルのシャンクレール(高級レストラン)で土下座をさせられたこともあったらしい。無事に帰国できたのだろうか。

宿泊客名簿に記入してもらうとき、フロントデスクに置かれた分厚い本と同じ名前で驚いたことがあった。その本の作家さんだ。お部屋に案内するとチップは大きなお札。その日はご馳走を食べに行った。きっと、売れっ子作家なんだろう。

アルバイトの期間中、わたしはみんなから愛されていた。人事部のマダム・タヴェラのシミエのお家に招待され、ピエ・ノワ(アルジェリア生まれのフランス人)のお母さん秘伝のクスクスをご馳走してもらったり、エーズの海に一緒に海水浴に行ったり。

ずっとここで働かないかと支配人に勧められたが、イタリアに行きたかったのでお断りした。あのままホテルにいたら、どうなっていたんだろう。アラブの石油王に見初められて、弟八夫人くらいに納まってたかも知れない。

結局、このアルバイトでわたしはお給料に手をつけなくてもやっていけるくらいのチップを貰ったことになる。ムッシュ・マローなんか、南仏に家が建ってしまうくらいに違いない。チップの意味ってなんだろう。「来年も来るから優遇してね」、「オーシャンビューのお部屋を融通してね」、「常客リストに加えてね」、「名前覚えててね」。ムッシュ・マローはドアボーイ、いわば丁稚奉公からの叩き上げ。でも、どんな王さまよりもエレガントでインテリジェント(正真正銘、数ヶ国語が自由に操れる人)、着こなし身のこなし、どれをとっても非の打ち所がなかった。ポケットの膨らみだけが、ちょっと気になったけれど・・。

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1912年に設立されたこのホテル。フロントの女性に「30年前ここで働いていたの」と言って写真を見せると、「30年なんて短いものですよ」と返された。こうして息子と泊まりに来ることになるなんて。感慨深いものがあります。