恒例の9月上旬のバカンス、今年はニースを選びました。ちなみに、一昨年は南イタリアのマテーラ、去年はウィーン。ニースは、本当は去年行くはずでしたが、7月14日にテロがあったので見送りました。
かつてニース大学に通っていたころ、プロムナード・デ・ザングレの超高級ホテル、ホテル・ネグレスコで
アルバイトをしたことがあります。英語もフランス語も話せない日本人客が急増して困っていたホテルが大学に求人に来たのです。そして、その白羽の矢はわたしにあたりました。そこでは、次から次にエピソードが・・・。以下、過去日記「ホテル・ネグレスコ」より。
★ ★ ★ ★
フランス留学時代、ニースの高級ホテル、ネグレスコでアルバイトをしたことがある。「最近日本人観光客が多くなったが英語もフランス語も話せなくて困っている」と大学に求人があり、その白羽の矢があたってしまった。まずは労働許可証の申請。ホテル側が添えた採用理由には「数ヶ国語が自由に操れる特殊な人材」とある。フランス語と英語が少しと日本語しか話せないのに良いのか?ここで否定しなかった自分もすごい。
週6日の8時間労働のフロント業務だったけれど、チップがもらえたのが学生の身分としては嬉しかった。わたしはせいぜい小銭、でも、レセプションのボスはお札でポケットがパンパンに膨らんでいた。
そのボスというのはレセプションだけでも3人いて、早番遅番、曜日などで常に入れ替わっていた。同じカウンターには、パトリックというゲイの男の子とオランダ人のスタジスト、そしてもの静かな会計の女性がひとりいた。親切に仕事を教えてくれたのはパトリック。ピコピコ指を動かせながら話すのが可愛い。
ボスのひとりムッシュ・フェラーリはイタリア系。とても陽気で優しい。もうひとりのムッシュ・メランジュは、わたしを裏部屋に追いやって一日中ファイルの整理をさせ、フロントを独り占めにしていた。そのため、ムッシュ・メランジュと仕事をした日は晩御飯代が出なかった。
副支配人のムッシュ・マローは007に出てきそうなダンディな人だったけれど、ポケットの膨らみ方は目に余るものがあった。
コンシエルジュのボスは温厚でいつも周りを冗談で笑わせてくれた。ポーターさんは外国人の出稼ぎが多く、闘牛士を思わせるスペイン人のカルロス、働きもののドイツ人のリチャール、フランス人の金髪の美少年と小太りの子がいた。
仕事を始めて間もないころ、ホールにヴィトンの旅行鞄が山積みにされて驚いたことがある。ハリウッド女優のご到着だ。ニースでテレビ番組の撮影があったらしい。
しばらくすると、イランの石油王が美少女と現れた。ホテルの玄関脇には人だかり。彼の車を見物・撮影しているのだ。よくよく見るとハンドルにはダイヤモンドで石油王のイニシャルが埋め込まれている。なんでもカルチェに作らせたのだとか。それ以来、ホテルで彼らとすれ違うたびに彼らがダイヤモンドに見えてきた。
アラブの王さまが、ご夫人三人と第七王子までの息子たち、その他大勢の召使を引き連れて、ホテルのワンフロアを貸し切ったこともあった。「部屋にある骨董家具を酔った勢いで壊しちゃった」という電話が・・。マダム・オジェ(オーナー)が競落とした大切な骨董家具が・・ああ・・。
アラブといえば、北アフリカに駐在の日本人商社マンの奥さまから「豚肉の冷凍をこっそり持ち帰りたい」と相談を持ちかけられたことがあった。わたしにそんなこと言われても・・。すると、どこかでクーラーバッグを調達されたようで、冷凍豚肉をごっそりお持ち帰りになった。無事に通関できたのだろうか。
いつものようにフロントで仕事をしていると、ひとりの老人がデスクにやって来た。イタリア語訛りでなにを言っているのか解らず、「え?なんです?ゴミ箱だったら裏から回ってくださいな」と答えるわたし。それを見ていたムッシュ・フェラーリ、慌てて丁重に挨拶し、みずから貴重品ボックスを取りに行った。このホテルのスイートに毎年一ヶ月ほど滞在する顧客だった。
ロシアの日本大使館の外交官でしかも同じ大学というひとが訪れたこともあった。ロシアでは新鮮な野菜が食べられないので、わざわざニースに野菜を食べに来たと仰る。「先輩、それじゃあ、”魚介”(野菜でなく)の美味しいレストランに行きましょう!」と、自分がかねてから行きたかったレストランにお連れした。あんなにたっぷり生牡蠣を食べたのは生まれて初めて。
ある晩、ひとりの英国人男性が訪れた。カジュアルなジーンズ姿のそのひとを見て、ムッシュ・フェラーリは「満室でございます」と丁重にお断りした。「近くに安いホテルもあるから、あんな感じで言えば良いんだよ」と。で、でも、あの顔には見覚えが・・あれ、テレンス・スタンプじゃない?ムッシュ・フェラーリまずいっす。
翌日、ムッシュ・フェラーリに支配人から呼び出しがかかった。(なにを隠そう通報したのはこのわたし)その翌日から映画の撮影が始まり、報道陣や関係者がホテルに殺到した。なんの映画だったんだろう。
失敗をしたこともあった。電話でお客の問い合わせがあり、PCに名前がなかったので「お泊りではございません」と答えた。その午後、イスラエルのお姫さまが自家用ボートでホテル前にご到着。朝の電話は花屋からだと判明。どこかの王子さまからの花束だったに違いなく、夜にはフロントがいっぱいになるくらいのフラワーが届けられた。
「おらが一番」のアメリカ人を部屋に案内したときのこと。南仏の超一流ホテルとはいえ、シェラトンのようなモダンな造りではない。ロココ調ムードが売りもののこのホテル、部屋は骨董の家具と装飾でいたってコンパクト。大柄のアメリカ人ならベッドから足が30cmくらいはみ出るだろうし、天井だって低い。エアコンもガーガーうるさく、よく冷えない。これでは宿泊料金のもとがとれないという顔つきだった。こちらとしては、お引き止めする理由はない。でも、晩御飯のためのチップがかかっているからちゃんと部屋の説明だけはする。しっかりものの奥さま、お財布を出そうとするご主人にきっぱり「Don't」と。アメリカ女性は強いなあと感心した。
日本人客の中には、股引で廊下を歩かれていた方もあったが、印象に残ったのは怖いお兄さんの南仏一人旅。怖いお兄さんがどうして南仏を一人旅なのか?そんなお兄さんにも添乗員がついていた。「逃げ出したい」とその女性に泣きつかれたが、わたしにそんなこと言われても・・。ホテルのシャンクレール(高級レストラン)で土下座をさせられたこともあったらしい。無事に帰国できたのだろうか。
宿泊客名簿に記入してもらうとき、フロントデスクに置かれた分厚い本と同じ名前で驚いたことがあった。その本の作家さんだ。お部屋に案内するとチップは大きなお札。その日はご馳走を食べに行った。きっと、売れっ子作家なんだろう。
アルバイトの期間中、わたしはみんなから愛されていた。人事部のマダム・タヴェラのシミエのお家に招待され、ピエ・ノワ(アルジェリア生まれのフランス人)のお母さん秘伝のクスクスをご馳走してもらったり、エーズの海に一緒に海水浴に行ったり。
ずっとここで働かないかと支配人に勧められたが、イタリアに行きたかったのでお断りした。あのままホテルにいたら、どうなっていたんだろう。アラブの石油王に見初められて、弟八夫人くらいに納まってたかも知れない。
結局、このアルバイトでわたしはお給料に手をつけなくてもやっていけるくらいのチップを貰ったことになる。ムッシュ・マローなんか、南仏に家が建ってしまうくらいに違いない。チップの意味ってなんだろう。「来年も来るから優遇してね」、「オーシャンビューのお部屋を融通してね」、「常客リストに加えてね」、「名前覚えててね」。ムッシュ・マローはドアボーイ、いわば丁稚奉公からの叩き上げ。でも、どんな王さまよりもエレガントでインテリジェント(正真正銘、数ヶ国語が自由に操れる人)、着こなし身のこなし、どれをとっても非の打ち所がなかった。ポケットの膨らみだけが、ちょっと気になったけれど・・。
★ ★ ★ ★
1912年に設立されたこのホテル。フロントの女性に「30年前ここで働いていたの」と言って写真を見せると、「30年なんて短いものですよ」と返された。こうして息子と泊まりに来ることになるなんて。感慨深いものがあります。