2020年10月16日

母、86歳、イタリアへ移住する〈秋の山暮らし〉⑫ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente! 〈vita autunnale in montagna〉




冬は、糸紡ぎや編物、機織りをして過ごすことが多く、夏のあいだに育った和棉を糸にするのがここ数年の楽しみのひとつ。

和棉紡ぎとの出会いは東京の用賀にあった東京コットン・ヴィレッジというジャズ・クラブ。マイ・ボトルならぬマイ・スピンドル(糸紡ぎの独楽)をお店に据え置き、仕事帰りのサラリーマンがジャズを聴きながら独楽を回す姿がシュールというか、可愛いというか。

原毛の糸紡ぎや機織りも好きだけれど、こちらは羊を飼うところから始めるのはちょっと無理。和棉なら種から育てるのもありかも、ということで、ローマで和棉を栽培することになった。最初の年はベランダで鉢植え栽培、でも、それでは埒が明かないほど少量なので、自家菜園をしている山の友だちに頼んでみた。快諾!2017年の暮れに最後の収穫の綿をどっさりといただいた。



2017年から2019年の暮れまで、いろいろとあって手つかずだったが、母の移住手続きが終わってほっとした段階で、まずは、栽培してくれた山の友だちに紡いだ糸で手織りの布を作ることに。これは、写真の木製フレームに5ミリ間隔で交互に釘を打ちつけて自分で作った機織り機で一本一本糸を通して織るという気の遠くなるような作業。でも、彼らは、それでは足りないくらいの労力と思いを注いで育ててくれたので、感謝の意も込めて、クリスマスにもなんとか間に合った。




コロナ禍のロックダウンを利用して残りの綿を糸にする作業は、母もきっと手伝ってくれるだろうと期待していたが、「よくそんな面倒なことできるわね」とあっさり😢 仕方なくひとりでせっせと紡いで、なにを作ろうか迷った末、ショールに。




母は、移住してからずっと編物に専念し、リビングの食卓の定位置で来る日も来る日もセーターを編み続けた。編物は母にとってのセラピー。制作意欲も衰えることはなく、雑誌をながめてあれこれ迷ったりして楽しんでいる。

最近は、小さな文字で書かれた製図が読みにくいらしく、大きく書き写してテーブルの前に置いてあげる。ときには、手が勝手に動いてしまうのか、間違ったまま編み進んでしまって、解いては編みなおす、その繰り返し。達成感というのを味合わせてあげたいので、完成することが大前提なのだけれど・・・時間はたっぷりあるので、慌てず急がず、ゆっくりまったり。



上の写真は母が編んだふわっふわのとっくりセーター。ちなみに、いまは頑張って次男のVネックのベストを編んでいます。わたしは、アフガン編みにハマっています。



↓和棉についての過去日記

種から布まで、土の温もりを感じながら農的時間を過ごす豊かさ

寒い冬はコットンを紡いで過ごします




2020年10月9日

母、86歳、イタリアへ移住する〈秋の山暮らし〉⑪ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente! 〈vita autunnale in montagna〉




夏のあいだだけというつもりの山暮らしが10月いっぱいに延期になったのは、ローマのコロナ事情で外出の多い息子たちとの接触を避けるため。夫とわたしも危険年齢ゾーンだし母も高齢(87歳)なので、リスク・マネージメントを最大限拡張することになった。昨今の温暖化で10月もまだ暖かいに違いないと高を括っていたけれど、標高700mの古家は足もとから深々と冷え込む。

さすがに屋外の温泉プールは打ち切りとなり、10月は栗拾いがメインテーマとなった。そもそも、この山はほとんどが栗林、行けども行けども栗ばかり。ところが、ここ10年ほどは害虫が蔓延って(チニピデ・ガリージェノという中国来の虫=蛾の一種で、日本から輸入された栗木から伝染していったといわれる)栗の実はひとつもできなかった。それが、今年は、晴れて駆除に成功、町中に活気が戻ってきた。


我が家も一片の栗畑があることはあるが、管理は従弟に任せてあって、結婚30年来一度も足を踏み入れたことがなかった。栗拾いに憑りつかれてしまった母、車道や空地に落ちている栗はほとんどが拾われ尽くしてしまったし、親類や友だちは連日収穫で忙しく(外国人労働者の減少で人手が足りない)遊び半分でわたしたちがお邪魔するわけにもいかない。そこで、従弟に聞いて我が家の土地で栗を拾うことになった。


栗は、時期によって落ちる種類が違うが、その日はブーシュという大粒のマロン種がたくさん落ちていた。土地一面のイガイガを見たら、やめられないとまらない母。両手にいっぱいになるまで腰をかがめたまま拾い続ける。「真直ぐに立てなくなっちゃうよ」と言っても聞く耳持たず、ただひたすら拾う母。ひとつも残したくないという勢い。

そのブーシュは、大味で形が崩れやすいので、ここでは茹でて潰して「カスタニャッチョ」というお菓子にするのが主流なのだそう。これは、トスカーナのレシピとは違って、栗粉に溶かしたチョコレートと砂糖、ラム酒を和えて捏ねた、いわばチョコ栗きんとん。

大きく(1粒40グラムほど)て形も綺麗なブーシュを粉にするなんて、なんてもったいないこと!しかも、マロングラッセ用に需要があるので卸価格も他の種類より高い。それを粉にするなんて…。

そんなごく自然ないきさつで、ド素人のわたしがマロングラッセに挑戦することになった。ところが、マロングラッセというのは、これまた手間のかかる一品で、栗にもよるのでしょうが、一週間くらいかかってしまう。なんちゃってマロングラッセなら3日くらいでできるけれど、あの独特のもっちりしっとり感はない。

ちなみに、マロングラッセの起源は、フランス説もあればイタリア説もあって、本当のところは不明。ピエモンテの栗の産地クネオで16世紀にサヴォイア王朝の男爵カルロ・エマヌエレのために作られたという説は、1790年に出版された『Confetturiere Piemontese』という書物にレシピが記されていることから有力とされるが、16世紀のリヨンが起源というフランス説もある。

いろいろなレシピで試行錯誤を続けながら、台所には常時シロップ漬けの栗の鍋が2つという、我が家では前代未聞の光景。まったく栗を煮ないレシピもあれば、先に火を通してから砂糖漬けにするもの、分量もマチマチで、栗の種類とおそらくは水とか火加減、砂糖の量、すべてを調整しながらという、コレという決め手がないというのがこのお菓子のレシピなのかも知れない(調理というのは往々にしてそういうもの・・)

ハードルが高すぎるとも思うけれど、栗の産地であるここのジモティたちに試食してもらいながらシロップ鍋とのおつきあい、「10月もまだここにいるの?」と不満気だった自分に異変が起きている!


10月のこの町の目玉といえば栗フェス(Sagra di Castagne)、今年は、生憎コロナで中止だが、来年はきっと収束して開催されるに違いない。もし、このマロングラッセがうまくいったら、友だちのブースで出させてもらったりして?そんな楽しみがちらつき始めたらやる気も出るというもの。

10月もここで過ごすのは、たぶん、おもしろい。




2020年9月23日

母、86歳、イタリアへ移住する〈夏の山暮らし〉⑩ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente! 〈vita estiva in montagna〉



結婚以来30年このかた、9月後半にこの山にいたことは一度もなく、今年はコロナ禍でわずかだった避暑客もいよいよいなくなって、寂しくなるやら落ち着くやら複雑な心境だったが、とにかく町には平常の生活が戻ってきた。この時期のひとびとの最大の関心事は栗。いつ、どの種類がどれくらい収穫できるか、雨はいつ、どれくらい降るのか、などなど。この山は、見渡す限りが栗の木に覆われていて、夏のあいだはせっせと草を刈って焼いて、秋の栗拾いに備える。まとまった雨さえ降れば本格的な収穫作業が始まるのに、なかなか降ってくれない日々が続いた。

今週になってようやく天気が崩れ出し、ひとびとの期待が高まった。と同時に、ここに来てから青々とした夥しい数の実を遠目に見ながら、それをずっと待ち望んでいたひとがいる。

雨が降った後、水分で重くなったイガイガが地面に落ちて割れ、実があちこちに散らばっている。車道ではタイヤに踏まれて潰れるものもたくさんある。

「もったいない・・」と母。

もったいないといえば、夫もまたもったいながりやで、野生のイチジクやインド・イチジクの実が熟して落ちてしまうのを放置できないタイプ。温泉プールへの道すがら、そういった木がいくつかあって、捥ぎどきを虎視眈々と狙っているのだ。イチジクなら簡単に捥げるが、インド・イチジクの方は、サボテンの実、棘がいっぱいで手で触れることができない。長い棒の先にナイフを取りつけてギコギコ、細心の注意を払いながら容器に収めて持ち帰るといった難易度の高さ、技を要する。「そこまでしてやる?」と思ってしまうのだが聞く耳持たず。言い出したら聞かないのは母も同じで、どうやら山育ちどうし気が合うのかも知れない。食べものや味の好みまでよく似ていたりする。

さて、雨が降ったところで、さっそく、母を連れて栗拾いに出かけることにした。私有地には入れないので、車道に落ちている栗が拾えるところに出かけると、あるわあるわ。まだイガイガのなかに籠っている実は、両足で挟んで開いて取り出す。拾い出したら止まらない、もっともっとと夢中になる母のなかでは、幼いころの栗拾いの記憶が鮮明に蘇っていたようだ。栗を拾って時空を超える母!「また明日にしよう」と、適当なところで打ち切らなければいつまでも拾っていただろう。

家に帰ってさっそくオーブンで焼いてホカホカをいただく。そうだ!ヴィン・サントも買い置かなければ!

この雨がもう少しまとまって降れば、来週にはポルチーニが顔を出すはず。山歩きがてら気合を入れて探してみようと思う。もちろん、母も一緒に。

 


↓この山に関する過去日記

母、86歳、イタリアへ移住する〈夏の山暮らし〉⑧

母、86歳、イタリアへ移住する〈夏の山暮らし〉⑨



2020年9月7日

母、86歳、イタリアへ移住する〈夏の山暮らし〉⑨ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente! 〈vita estiva in montagna〉)

 



正直なところ、たとえ夏のひと月とはいえ、結婚してしばらくのあいだ山の暮らしには馴染めなかった。この山特有の気質というか、閉鎖的な社会に溶け込むのは本当に困難なことで、事実、隣町から嫁いできた女性でさえ、「ヨソモノだから大変」とこぼしたりする。「隣町って・・すぐそこですよね・・・どうなる、わたし?」そもそも、ここのひとたちは、ヨソのことには関心がなく、町のダレソレがどうした、なにをした、ばかりが語られ(しかも難解な方言)、ヨソモノのわたしにはいっさいがヴェールに包まれた謎。夫はというと、生まれ故郷の山をこよなく愛し、普段いない分を取り戻すべく、1秒をも惜しんで駆け巡る。そんなジモティ以上の夫と100%ヨソモノのわたしの30年来の里帰り、いまだにどこか宙ぶらりんで、なんとなくふわふわと過ごしている。

そんなわたしのなかの「世界の果て感」がようやく薄れてきたのは、ネットが開通してからのことで、どれだけ気が楽になったことか。遠くにいても決して離れているわけではないという感覚が育ってくると、ここでの生活も少しずつ楽しくなってきた。息子たちは、まさしくそういう世代を生きていて、ここの暮らしは悪くないと思っている。しかも、このコロナ禍である。

山の国で育った母にとって、ここは、生まれ故郷の原風景と重なるものがあるのかも知れない。食事にもこだわりがなく、新鮮で無農薬のキロメトロ・ゼロ(地産地消)が合うらしい。和食を食べたいと言ったことは一度もなく、たまにお寿司でも食べられれば御の字、作る側としては大変ありがたい。

母にとって、「ここは日本とあまり変わらない」のだそうだ。ヨソモノ意識など、母にしてみればどうでもいいちっぽけな壁なのか、自然の前ではもはや言葉や文化も大したことではないのか。たまに妄想に陥ってすぐに逃げられるように荷造りしておく、とか宣うこともあるけれど(前途多難の兆し)、まずまずの前進といえるかも知れない。

ここは、満天の星空。ある夜のこと、子どものころから星を眺めるのが好きだった母が、「もし地球がなくなったらどうしよう」と言うので、「別の星に移住すれば良いでしょう」と答える。意識がぐんと広がるときもあれば、ほんの些細なことでイジケルこともある。人間ってすごい、と思う瞬間。

夏が終わるまでもう少し、しっかりと充電していこうと思う。


↓この山に関する過去日記 








2020年9月5日

母、86歳、イタリアへ移住する〈夏の山暮らし〉⑧ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente! 〈vita estiva in montagna〉)

 


6月、州またぎの移動が可能になったところで都会脱出計画を遂行、学業のある息子たちをローマに残し、母と夫と3人で山の家へ移ることになった。夏の休暇はいつもここで過ごしているが、今年はコロナ禍でその存在のありあがたみを特に感じている。

標高600m、休火山のカルデラ内に発達した町は人口3千人ほど、ミネラル・ウォーターの源泉地でもあり、山一帯は栗の木で覆われている。毎年10月に催される収穫祭では「世界一大きなフライパン焼栗」がギネスで認定された。

この町から車で30分ほど山を下りたところには、硫黄の温泉地もある。ローマ時代から利用されているまさしく「テルマエ・ロマエ」、多くの施設が年間を通して湯治に利用されているが、屋外の温泉プールはぬるま湯ていど、硫黄が溶けて乳白色に濁り独特の臭いが漂う。はじめは、そのゆで卵のような臭いが気になっていたが、もうすっかり慣れてしまった。温泉地とはいっても、30年前もいまも変わらず、観光地らしい土産屋も飲食店もなく、日本人のわたしとしては温泉饅頭のひとつも欲しいところだが、殺風景な山あいには施設のみが点在する。

わたしたちも、歳をとるにつれて頻繁に来るようになった。やれ腰痛だの関節炎だの、医者の処方箋があれば格安に治癒を受けられる。

今年はぜひ母も連れて来たかった。日本を発つ前から高血圧で足がむくみ、冬は足が冷え切って眠れないほど。というわけで、週に2回、混雑を避けて午前中のみというペースで通うことに。7月になるとコロナ対策をしっかり取って営業が再開となった。とはいえ、まだ利用者はほとんどなくて貸し切り状態。なんという贅沢!

母は、プールに入るまで自分が泳げること、泳ぎが大好きなことすら忘れていた。恐る恐る水に足を入れ、手を広げて平泳ぎを試みる。すると、水を得た魚とはこのことか、すいすいと泳ぎ始めた。そして、「子どものころはよく急流で泳いだものだ」と得意満面の笑みを浮かべる。2ヶ月たったいま、プールを一周するまでにもなった!

足のむくみもすっかり取れて、真っ黒に日焼けした母、健康そのものでまるで別人のようだ。

「次はいつ行くの?」と目を輝かせる母。この暑さなら9月いっぱいは大丈夫そうだ。



2020年9月2日

母、86歳、イタリアへ移住する〈番外編〉⑦ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente! - edizione extra

 


母のイタリアの移住の予兆らしきものは、わたしたちの東京赴任が決まった2013年の春からすでにあったのかも知れない。

2013年の冬、高校の同級生(Mちゃん)から、四女をローマでホームスティさせてくれないかというメールが届いた。「娘に直接メールさせるのでよろしくね」。そのメールのしっかりした文面から、この子ならきっと大丈夫と直感、引越しの準備でバタバタするけれど、こちらこそよろしくね、と返事した。

同年代の息子たちだけでなくわたしも、日本の女子大生との触れ合いなど皆無にひとしく、ソワソワ、ドキドキ。ほんの短いあいだのホームスティだったけれど、一緒にローマ観光やショッピング、メルカートめぐりと、楽しい毎日を過ごした。そんな彼女とは、東京に赴任してからもおつきあいが続いた。大学4年、就職活動のさなかだった。

めでたく就職が決まって、吉祥寺に出かけたある日のこと、「社会人になるまでのあいだ女子力を高めておきたい」という彼女。街を散策しながら、ふと、ある店の前で足が止まる。なにやらモフモフ、ふわふわ、原毛のままの羊毛が所狭しと置いてある。吸い込まれるようになかに入った。そこは、糸を紡いで機織りしたりするところ、講習もしている。ふたりとも迷わず予約をした。それ以来、わたしは糸紡ぎと機織りをこよなく愛するようになり、ローマで和棉を栽培、綿を育てて糸にするまでの凝りよう。合理的で効率のよい便利な生活に別れを告げ、時間を巻き戻すようなスロー・ライフに目覚めたのかも知れない。

そして、2019年の冬が来る。兄の逝去で実家にいるとき、彼女のお母さん(Mちゃん)に再会する。「介護のことだったら母に相談してみてください」と連絡してくれたのだ。ホームスティのメール以来、Mちゃんには一度も会っていなかったけれど、いつもの変わらない姿、歩くスロー・ライフのオーラ。

Mちゃんの介護経験談はとても役に立った。

「認知症の母も真剣なんだから、真っ向から正論で立ち向かっても適うはずないの。母の恒例行事にはこちらが合わせる。否定してはいけない。否定、怒る、このふたつはさらなる悪化を招きます。これは、自信を持って実証済み」

まだ、認知症とまではいかない母も、記憶が飛ぶことはしばしばあった。環境の変化で一度に多くのことを整理できないというのもあるだろう。でも、Mちゃんの話は、遠い先のことのようで明らかに「明日は我が身」だった。

「用があったらいつでも連絡して」というMちゃんの言葉には嘘がなかった。仕事から帰ってからわざわざ軽トラックで粗大ゴミの処分を手伝ってくれたり、ひとりでいるわたしを夕飯に連れ出してくれたり、施設の母を見舞いに行ってくれたり。

その春、娘さんはイタリアで結婚式を挙げることになっていた。わたしの一時帰国のタイミングとぴったりで、母のショートスティさえ決まれば、ローマを案内できるという信じられない展開となった。

斯くして、結婚式を無事に終えられたMちゃんご一行をローマでお出迎えする運びとなり、わたしたちは、春爛漫のローマを20kmは歩いただろうか。元気に歩ける健康があることに感謝した。

実家の家じまいに再び取りかかり、5月末までに家を明け渡すつもりであくせくしていたわたしに、Mちゃんは言った。

「お母さんをイタリアに連れていけ」

その言葉をきっかけに母の移住計画が動き出した。Mちゃんがもしわたしの立場だったら、きっとそうするのだろう。親をひとりで置いていって良いわけがない。それから、Mちゃんとは、老いゆく姿をさらけ出すことの意味をよく話すようになった。

「現在進行形なので受け手としては少々戸惑うこともあるけれど、何歳になっても生きるって素晴らしいと思えるようになってきました。この先、わたしたちの母親がどんなことを娘たちに伝えてくれるのか楽しみです。世界にたったひとつの教科書、お互い大事にしていきましょうね」

隠すべきでも否定するでもなく、ありのままを受け入れる。その機会を与えられたことに感謝しつつ。






2020年8月29日

母、86歳、イタリアへ移住する〈隔離生活〉⑥ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente! 〈Vita in quarantena〉


今回の引越し荷物には、実家の家じまいでどうしても捨てられなかったもの、同居することになった母の持ちもの、さらに、東京で使っていた家具もあり、手狭になったリビングの模様替えにさんざん頭を捻った結果、とうとうピアノを処分することにした。

ブエノス・アイレス時代に購入したミニョンは、ウィーン製のマホガニーで鍵盤は象牙、大好きだったけれど、わたしは指に関節炎を発症し、弾くひとがいなくなってしまった。

引き取り手が決まって、いよいよ搬出。ここでは、エレベーター(そもそも大き過ぎて入らない)や窓からクレーンで下ろすのではなく、コンパクトな自動運搬機に載せて階段を下りていく画期的な方法。ちなみに、ブエノス・アイレスでは9階から下まで担いで降ろしていた。ようやくリビングが広くなったところで、家族5人の隔離生活が始まった。

ロックダウンになって生活が不便になったとはいえ、高齢の母と持病のある夫が安心して生活できることはありがたかった。息子たちの大学の講義はオンラインになり、仕事もリモートになった。邪魔もの扱いしていたエリッティカ(サイクリング・マシーン)は運動不足解消に役立ち、大反対だった巨大スクリーンTVも、いつも噛りついていたのは結局わたし。

すべての移住手続きが終わってほっとしたところに始まったロックダウン。外出で気分転換もできないような状態、ますます家族との時間が濃密になってくると、母がまだここの生活に溶け込めていないことがよくわかった。

わたしたちとは長いあいだ離れて暮らしていたし言葉も習慣も違う。娘もずっと会わないうちに変貌を遂げ、もはや日本語の話せる外国人。カルチャー・ショックと同時にジェネレーション・ギャップもある。本当にこの家族とやっていけるのだろうか、そう繰り返す日々だったに違いない。母は、なにかにつけ、「こんなところに入ることになって・・」と言った。あたかもここが施設であるかのように。あまりの急激な環境の変化とコロナ騒ぎ、ロックダウン、立て続けの出来事に頭のなかが混乱して整理しようにもできないのかも知れない。

認知症が進んでいるのだろうか?家族に話すと、わたしたちが介護スタッフではなく家族だということをわかってもらうために、名前で呼び合ったり、写真で説明したり、いろいろな方法を試みることになった。

ところがある日、「あなたがだれかわからない」と言い出し、とうとう来るべきときが来たのだと思った。

「でも、この写真にはお爺ちゃんとわたしと、それに孫たちも写っている・・・どういうことなのかわからない」母は、辻褄を合わせようと必死、混乱がピークに達しているようだった。

「施設設定」を早く取り消して家族の一員だということをきちんとインプットしなければ、どんどんこじれていく。

「わたしはあなたの娘、死ぬまでそばにいるから安心して、大丈夫」、そのとき、母の目に涙が溢れ、「知らなかった、知らなかった」と泣き崩れた。

その翌朝、けろっとした母は、わたしがだれなのかちゃんとわかっているようで、施設という亡霊はとりあえず消えてくれたようだった。




2020年8月28日

母、86歳、イタリアへ移住する ⑤ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente!

 


ここはローマ、移民は星の数ほどいる。しかも、世界各国からとなると市役所の住民登録もさぞかし大変だろうと思う。

市役所には手続きのマニュアルが置いてあり、まずはそれを読んで勉強する。市役所の業務はすべて予約制だが、住民登録はほぼ永久的に満席状態。予約サイトを毎日チェックしてキャンセル待ち。これではいつになるかわからない。

ということで、すべての書類(かなりの量)をスキャンしてオンラインで申請することにした。イタリアにはPECという登録制の電信箱があり、大切な書類を送る場合はこのメールを使用する。ただ、その容量が前世紀的に小さく、スキャンした書類は一度に送れず、何通にも分けて送信。念のために書留で郵送もする。しばらくして受領通知があり、一か月以内に警官による家庭訪問があるとのこと。登録の住所に本当に住んでいるかどうか確かめに来るというわけだ。

住民登録が終われば、母の保険証と身分証明書の申請ができる。これでホームドクターも選べるし、わたしたちと同じように生活ができる。

残すは年金の海外受給手続きのみ。これが意外と簡単で、本人名義の口座を日本の年金機構に知らせて申請する。銀行の口座開設には「フィスカル・コード(納税番号)」が必要となってくるが、これは、すべての住民が所持しており、母も例外にもれず滞在許可証取得とともに受け取った。

海外受給の申請書類を郵送して返事を待っていたちょうどそのころ、イタリア北部ではコロナの感染が広まりつつあり、生活にも制限が出始めていた。そして、とうとう封鎖。首都ローマも時間の問題だった。

ただならぬ胸騒ぎ・・年金機構に確認の電話を入れてみると、書類に不備があった(銀行の所在地が確認できないというだけの)ため返却したとのこと。しかも、悠長に普通便で!こちらは、コロナ禍で郵便が届かなくなるかも知れないのに!

再び書類を送り返すために郵便局へ行ったのは、イタリア全土がロックダウンになる前日のことだった。年に一度、誕生日の月末までに送る現況確認(住民票)も送付し、これで日伊双方の移住手続きがすべて完了した。




2020年8月27日

母、86歳、イタリアへ移住する ④ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente!



イタリアまでのフライトは12時間ほど。高齢の母に果たして堪えられるだろうか?ところが、だれよりもよく食べ、よく寝、疲れたようすもない母は、「なんだか夢を見ているみたい」と、空の旅を楽しんでいるようだった。

数日後、旅の疲れがおさまったところで、いよいよ移民局へ行くことになった。渋滞が見込まれる環状線からアクセスするため、早朝7時に車で家を出る。移民局の入口にはすでに多くの外国人が並んでいた。車椅子の高齢者ということで優先的に窓口へと案内され、1番の番号札をもらう。「書類は揃っているので、すぐに手続きさせてもらえるはず」という期待は大きく外れ、今回は提出書類の説明と予約のみ、予定日は年を越した1月半ばとのこと。母の観光ビザの期限が3ヶ月、もしその時点で不備があれば、母は強制退去させられることになる。こうしてひとつめの問題が浮上した。

そして、驚くべきは、ここに至ってはじめて提出書類が判明したということ。法律事務所や移民関連情報サイトではわかりようのないシロモノだった。日本の戸籍の原本などは一切必要なく、イタリア当局が発行するわたしの家族証明と出生証明だ。そのとき、なぜか、「出生証明には時間がかかるかも知れないので早めに入手するように」と念を押されたのが気になった。

市役所では、家族証明はすぐに発行されたが、出生証明の方は、担当窓口のパソコン画面に黄色い⚠マークが出てきてしまう。「ここでは発行できないので国籍取得の手続きをしたところに問い合わせてみて」とのこと。さっそく取り寄せた出生証明は、登記ナンバーのない、生年月日と出生地のみが記載された明らかにその場で作成した証明書、もちろん両親の名前など書かれてはいなかった。

いくら問い合わせても「これしかない」の一点張りで、跳ね返されてしまった。ここにふたつめの問題が浮上。

母子関係の証明ならば、アポスティーユ認証と領事館認定の法定翻訳つきの日本の戸籍も法的に有効なので問題ないはず、いったいわたしのイタリアでの出生証明はどこにあるのか、どうなっているのか・・。もう後には戻れない、背水の陣。

でも、ここはイタリア、やはり持つべきものは友である。その助けを借りて11月末には晴れて滞在許可証を取得することができた。

ところで、その「出生証明」、まだ終わっていなかった。

師走のクリスマスどき、スーパーの駐車場でバッグを盗まれてしまった。クリスマス前は彼らにとってもかき入れどきなのは十分わかっていたのに。2019年ずっと張りつめていた緊張がふと解れた隙をつかれたようだった。

盗まれた身分証明書の再発行手続きは市役所が行う。そこで、またもや担当窓口のパソコンに⚠マークが!身分証明書の発行にも「出生証明」が不可欠なのだった。ぜひローマの中央登記所に問い合わせてみるようにと促され、翌日さっそくカンピドリオの役所に出向いてみた。(しかしながら、盗まれた身分証明書は「出生証明」なしで発行されいたわけで、どこかで規準が変わったのか、はたまた片手落ちの発行だったのか?)

カンピドリオといえばローマ時代のマツリゴトの中心、古代遺跡の建物は市庁舎として現役で活躍している。中央登記所はその近くの古い建物のなかにあり、その構造は複雑で迷路のよう。あてずっぽうに部屋をノックしてみると、まあまあどうぞと通され、ゆっくりと話しを聞いてくれ、丁寧にアドバイスされるとともに訪ねるべき責任者の名前も教えてくれた。

斯くして、その責任者のオフィスに赴き事情を説明すると、「すぐに調べましょう」と快く担当者のところに案内された。

いかにも真面目でできるひとっぽいその担当者によれば、「出生証明というのはイタリア国内のどこの役所でも検索できるので、ローマの市役所で見つからないなら存在していない、つまり、国籍取得のときに日本の戸籍から写されていない可能性が高い」とのこと。

「ローマに転入したときに転記漏れがあったのではないか?」と尋ねると、「そんなこと、このローマで起こりうるわけがない!」と、ほぼ憤りの形相。

だとしたら、1996年から2020年の今日に至るまで、ざっと24年に渡って出生証明は存在しなかったことになる。これは、知らぬ存ぜぬでは済まされない登録役場の業務ミスであり、怠慢と言われても仕方がない。さっそく役場に電話で問い合わせることになった。案の定、悪い予感はあたってしまった。

こんなこともあろうかと、婚姻届けから国籍取得、有効な日本の戸籍の原本まで、必要と思われる書類すべてを持参していたので、その場で申請手続きとあいなった。「24年前のイタリア(しかも地方の役場)ではありうることだった」と遺憾の念を露わにした責任者。

その責任者のフェリーチェ氏(幸福という意味)から登記完了の電話があったのは、その一週間後、かなり責任を感じておられたようだ。

それにしても、このカンピドリオの中央登記所にはどこか異次元っぽい空気が漂っていた。そのむかし、ローマは、外国人に市民権を与えて大きくなっていったわけだが、古代の「移民歓迎の刻印」はいまも消えていないのかも知れない。申請窓口では、「フェリーチェ氏は登記の仕事に喜びを感じているんだよ」と、冗談まじりの言葉が囁かれた。

こうして、身分証明書も再発行されて、めでたしめでたし。もし盗難に遭っていなかったら未解決のままだったに違いない。まさに「災い転じて福となす」。泥棒に対する怒りも感謝の念に変わりつつあった。




2020年8月26日

母、86歳、イタリアへ移住する ③ Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente!

 



出国までのひと月を過ごした東京は、長いあいだ故郷を出ていない母にとっては異国のようだったに違いない。母のために「東京見物」をする傍ら、わたしは、すべての手続きに手落ちがないか、入念にチェックをしていった。

■戸籍の翻訳とアポスティーユ認証 イタリア語の翻訳は無理だと思っていたけれど、なんとか自分でできた。外務省に行ってアポスティーユをもらう。

■海外旅行保険 高齢者の場合、扱っているところはほとんどない。必要な薬を少なくとも三ヶ月分はストックしておく。インフルエンザの予防接種も受けておくのが望ましい。

■年金 海外受給の方法を地元の年金機構事務所で予め問い合わせる。

■海外送金 親子関係を証明する戸籍や身分証明書まで持参しての手続き審査、ちまたで高齢者を狙う詐欺まがいの事件が頻発していることがうかがわれた。

■郵便物 いちばん気がかりだったことだが、夫の事務所で管理してもらえることになる。

■転出届 出国の二週間前に市役所に郵送する。

■携帯電話の解約 最後の最後に。

■来年の確定申告 知り合いの税理士に一任する。

■搭乗便 車椅子利用のむねを連絡(これがローマ到着時にイミグレーションで大いに役立つことになる)。

事務手続きでやり残したことは、これでもうないはず。

母の衣類は動きやすく着心地のよいものを揃え、履きやすい靴を買う。着道楽の母には、わたしの意見はすべて気に入らないようだったけれど、イタリアで落ち着くまではそんなことは言っていられない。当分は合宿モードです!そして、必ず恋しくなる和菓子や和の食材も忘れずに。

いざ、出国!


2020年8月25日

母、86歳、イタリアへ移住する ② Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente!

 


移住までの母の住居となった介護施設は新築の高層ビルで、ホテルのロビーのような立派な大理石張りの受付ホールには豪華な胡蝶蘭が飾られ、水槽には優雅に熱帯魚が泳いでいる。明るいイメージでスタッフも笑顔でとても親切だ。この環境なら母も気に入ってくれるに違いない。この施設を推薦してくれたのは、統括センターだった。遠方にいるわたしにとって、駅に直結している立地は最適だろうと。

搬入した荷物を箪笥や戸棚にきちんと整理して翌日また訪れると、荷物はもと通りに片づけられて「いつでもすぐにここを出られるようにしておくの」と母。

「ここがこれから家になるのよ」と、もう一度整理して立ち去ると、また同じように片づけてしまう。いったいどういうつもり?また家に戻れると思っているのだろうか?認知症が進んでいるのかも知れない、と心配だった。

新しい生活のなか、たまに訪問客があると母はとても嬉しそうだった。食事も楽しみのひとつだっただろうし、看護婦さんやスタッフとのやり取りだけでも新しい生活は母にとって刺激的だったに違いない。もしひとりになって介護が必要になったら、わたしでさえ入りたいと思うような場所だった。

ただひとつ、契約には保証人とは別に身元引受人も必要で、海外にいるとそれがネックとなる。連絡は電話のみで、メールでのやり取りは一切できなかった。従弟妹たちにすべてを任せていくには少々重荷のような気がした。

9月、イタリア移住のことを話すときが来た。やはり日本を離れるのは抵抗があるようで、できれば住み慣れた町にいたいのだと言う。置かれている現実がまだ把握できず、また以前のような生活に戻れると信じているかのようだった。

こころを鬼にして強硬策に出るしかないのだろうか?母の生まれ故郷で兄弟家族に送別会の席を設けてもらい、そこでじんわりと説得することに。もはや移住以外の選択肢はなく、これは不可抗力なのだ。

出国のひと月前、介護施設を引きはらい、母を車椅子に乗せていざ東京へ。

86歳まで暮らした町との別れだった。

2020年8月24日

母、86歳、イタリアへ移住する ① Mamma, 86 anni, si trasferisce in Italia, definitivamente!




2019年2月、兄が突然亡くなった。そして、兄と同居していた母がひとりぼっちになった。ローマにいたわたしは急遽帰国、それからというもの、お葬式、遺品整理、相続手続き、ぎっくり腰になった母の入院、介護施設探しと転居、家の処分、墓じまい・・・山積みの日々が続いた。

離れて暮らしていると、母はいつまでも以前のままのような気がして、ヘルパーさんに来てもらえばひとり暮らしも大丈夫だろうと思っていたら甘い甘い、なにからなにまで兄がお世話をしていたので、食事の準備からお金の管理まで、いつのまにかなにもできない母になっていた。 

幸い、お風呂や洗面、着替えなどの身の回りはなんとかなったけれど、記憶はときどき飛ぶし、足元が覚束ないこともある、一軒家でひとりで暮らすのは危険、etc... 一緒にいてはじめてわかることがたくさんあった。これだとどこかの施設に入ってもらうしかない・・・。

市の統括センターで介護保険手続きをお願いし、とりあえずのショートスティ先やその後の介護施設などだいたいの目処がついたところで、4月にはいったんローマに戻り、家の売却や相続手続きなどはメールでやり取りを続け、5月末には不動産屋に鍵を渡すというスピード展開。

友だちと計画していた6月後半からの還暦祝いクルーズ旅行もキャンセルすることなく無事に出発することができた。

11月には東京任務を終えて帰国が決まっていたわたしたちは、母をそのまま介護施設に残していくつもりだった。年に一度くらいようす見に帰ればいいだろうと・・・。

それが、ある日、一大転換が訪れる。

「実家の家じまい」をメンタルからフィジカルまで終始一貫支えてくれた高校のクラスメート(彼女とのご縁は小説が書けるほど!)が、「お母さんもイタリアに連れて行くしかないでしょう!」ときっぱり。夫に相談すると、すぐに領事館に問い合わせよう、と。

目から鱗だった。母をイタリアへ連れて行こうなどと1ミリも考えていなかったのはわたしだけだったのかも知れない。親戚に打ち明けると「それがいちばん!」という返事。

母の面倒を見てもらう親戚がなかったわけではないが、親切に後見人を名乗り出てくれた従兄も高齢、母の在所もそれぞれが高齢者を抱えている、よくよく考えてみれば、実の娘がいるのにそれで良いのか?いろいろな思いが巡った。

とりあえず、母のイタリア移住については、あくまで選択肢のひとつとして、出国までの母のようすを見ながら準備を進めることになった。

移民手続きの必要書類については、イタリア領事館もローマの移民局に問い合わせるようにとのこと。けれども、遠路はるばるテオフィロ・パティーニの移民局までいきなり行って情報がもらえるのかどうか、それも不明だった。最寄りの警察署の移民窓口に行ってみたが、正確な情報はなく、まったく埒があかない。

やはり、移民局に直接出向いて聞くしかないのかなあ。なんとかじぶんで調べることはできないものか?

移民に関する条令や移民専門法律事務所のサイトを徹底的に調べていたら、ようやく、イタリア人の家族を外国から呼び寄せる場合の手続きは比較的簡単だということがわかってきた。 

日本から準備していく書類は、母とわたしの関係性がわかるものということで外務省のアポスティーユ証明とイタリア語法定翻訳つきの戸籍謄本、医師の健康診断書、有効なパスポートくらい。とりあえず観光ビザで入国して移民局へ出頭する段取りでいけそうだった。

出国の11月まで、母には安全な施設にいてもらうことにして、移住についても、追々説明するつもりだった。めまぐるしい生活を強いられてきた母の心情を慮れば、すぐに言い出せることではなかった。